魂はスマホに

先日、用事があって天神に出た際のこと。
いつものように車を立体駐車場に止めて、そこからビルの6階相当の高さに位置する長い連絡通路を通って反対の商業ビル群のほうへ向かいます。

この空中にある連絡通路の中ほどに、ひとりの若い男性がしゃがみこんで下を向き、なにかをしきりにやっている姿が目に止まりました。

前を通過する際に見ると、なんのことはない、その両手の先にあるものはお定まりのスマホでした。
内心なーんだとは思ったものの、背中を壁につけ、深く曲げた両膝の間に両肩が入り込むほどうずくまって、顔は完全に床と水平になるほど下を向いており、見ただけで頭に血がのぼりそうでした。

駐車料金の関係もあって、2時間以内に出庫できるよう、それから2時間足らずで再びこの連絡通路に戻ってきたのですが、なんとその青年はさっきとまったく同じ姿でまだスマホに熱中しているのにはびっくり仰天しました。
若いから身体も柔らかいのだろうし、体力もあるのでしょうが、それにしたって疲れないのかと思われてなりません。マロニエ君はCD店などで棚の下の段を見るためにしゃがんでいても、ものの3分ぐらいで苦しくなり、立ち上がると鬱血した血液が回り出すのか、ふらふらと目眩をおぼえることも珍しくありません。

それにしても、スマホの何がそうまで人の心を捉えて離さないのか、いまだガラケーユーザーであるマロニエ君にはおよそ理解の及ぶものではありません。

先日会った知人もガラケーらしいのですが、その人曰く、地下鉄かなにかに乗ったとき、ふと気が付くと周囲をスマホ画面を操作する人ばかりに囲まれた状況になっていて不気味だったと言っていました。ちょっと覗き込んでみると、なんとほとんどの人が「ゲーム」をやっていたとか。

となれば、あの連絡通路でしゃがみ込んで真下を向いてスマホに興じていた青年もゲームだったのかもと思われます。まあ、それが実際にゲームでもメールでも大差はありませんが。

それにしても生きている時間の多くをこうまでためらいもなくスマホに捧げるというのは、なんだかやりきれない思いになってしまいます。
「若いときは勉強しろ」などと大上段に構えたことを言う趣味はもとよりありませんし、だいいち、そんなことを言う資格も無いようなマロニエ君です。我が身を振り返って、納得のいくような勉強や経験を積んできたわけでもなく、その点ではむしろ後悔と反省ばかりの自分です。

しかしそんなマロニエ君でさえ、ここまで世の中がスマホに汚染されていく社会というのはいかがなものか…と柄にもないことをつい考えてしまいます。

先日も討論番組で聞いて驚いたのですが、若者の間では深刻なスマホ依存症が激増しており、彼らは誇張でなく本当に一日の大半をスマホとともに1年365日過ごしているといいます。さらに驚愕だったのは、あまりに休みなく利用するためバッテリーを充電する時間もなく、そのために複数台をもっている人も多いというのですから、こうなるともはや現代のアヘンではなかろうかと思ってしまうのです。

もちろんスマホはれっきとした合法的なアイテムではありますが、その想定外の可能性を秘めた性能が、いともたやすく、誰にでも手に入ることは非常に危険なことなのかもしれません。