近ごろではピアノ作りに於ける価値基準のようなもの、つまり「最良のピアノ」というものの定義も、昔にくらべるとかなり変質してきているように思われます。
とくにハイテクのめざましい進歩の恩恵から、ピアノ作りに於いても、精度の面では飛躍的に増したことは間違いないでしょう。
優れた工作技術、コンピューター制御の普及によって、手作業をはるかに凌ぐ均質なパーツが苦もなく生まれ、その集積によって正確な機構が組み上がるのは、ピアノのような夥しい数のパーツの集合体である楽器にとっては、精度という面では圧倒的に有利となります。
我々は「手作り」という言葉に弱いところがありますが、これをむやみに有り難がるのは間違いだと思います。最新の機械技術によって誤差を極力排除した正確なパーツが制作されるのであれば、それに越したことはないわけです。そういう精度の高いパーツを作るのは機械のほうが上手いのなら、へんなこだわりは棄てて機械に任せたほうがいいでしょう。
問題なのは、さてどこまでを機械に任せるかということです。
いったんハイテクの恩恵を知ると、なかなか逆戻りはできません。「ここまで」という良心的な一線を引くのは至難の技で、そこにコストや利益が絡んでくればなおさらです。あれもこれもとそのハイテク介入の範囲は広がっていくことになり、その果てにあるものは冷たい機械としてのピアノの姿であり音だと思います。
もちろん、手作りでばらつきのあるピアノがいいピアノだとも思いません。
ただ、製品としての正確で均等均質な物づくりというものは、しだいに本来の物づくりの在り方から乖離して、とりわけ楽器の場合は本質から逸脱していくという危険を孕んでいます。
これが機械的には完璧に近いけれども、楽器としての生命感を失ったピアノが増殖していく大きな要因だと思います。
ピアノの世界にこの流れを持ち込んだのは他ならぬ日本の大メーカーだと思いますが、それが今や他国の第一級のピアノ作りにも悪しき影を落としているような気がします。
現在世界には、凋落していく銘ブランドを尻目に、これこそ最高級ピアノとばかりに躍進し、しだいに認知されているピアノもあり、一部の人達には極めて高い評価をされているいっぽうで、まったく逆の評価をする一派もあるようです。
その人達に言わせると、煎じ詰めれば機械としてのピアノの音でしかないということで、これはマロニエ君も似たような印象を以前からもっていました。
たしかに、製品として隙のない仕上がりで、機能も音も現代の基準を楽々と満たし、見た目にも輝くばかりの高級感にあふれていて立派ですが、ただ、そのことと、最高の楽器というのは、やはり最後のどこかで着地点が微妙に違うもののように感じます。
これらの何が一番違うのかというと、それは陳腐な言葉ではありますが、やはり「感動できない」ということにつきると思います。レクサスのようなピアノが最高級の楽器という風に単純に分類されることにどうしても抵抗があるのです。
よい楽器は、音や響きが美しいことは当然ですが、弾き手も聴き手も、作品世界に忽ちいざなわれ、心が溶けて奪われていくようなもの、あるいはわなわなと震えるようなものではないでしょうか。
どんなにひとつひとつの要素が立派でも、つまるところ人に感銘を与えない楽器は、血の通わない機械の美しさや完全性を押しつけられるようで、マロニエ君は良い楽器とは思えません。