類は友を呼ぶ

『類は友を呼ぶ』という言葉があります。

マロニエ君は、近ごろの人達のように立派な振る舞いや発言を心がけて、それを最優先するような考えがさらさらないことは折に触れて書いてきたとおりです。くだらないこと、ばかばかしいことにも並々ならぬ興味があり、これはマロニエ君の体質そのものでもあり、そういう感性なしでは生きてはいけません。

先週末、とある大きな書店でのこと。多くの人で賑わう店内で、ひときわ大きな声で何かを強烈に主張している人がいました。しかもたったひとりで、まさに意味不明なことを次から次へと間断なくまくしたてるものだから、みんな警戒しながら通り過ぎています。
しかもその声というのが、舞台俳優のように太くてボリュームがあり、さらに通る声だったので、きっとこのとき店内に居合わせた人達のほとんどが、表向きは無関心を装いながらもこの声に気をとられていたことでしょう。

ときに叫びにも近いときがあり、こちらも自分ひとりなら大いに不安になったでしょうが、人は大勢いることでもあるし、マロニエ君も形こそ立ち読みをしているものの、そっちが気になって内容はあまり目に入らず、内心はこの声ばかりに集中していました。
しばらくそれは続きましたが、5分もすると、そのうちいなくなりました。

やれやれ終わったか…と思いながら、今度こそ本の内容に意識を向けて立ち読みをしていると、いきなり肩をトントンと叩かれ、むしろこっちのほうにびっくりしました。
振り向くと、友人がそこに満面の笑みをたたえて立っており、お互いにその偶然に驚きました。

聞けば友人も、さっきのあらぬ言葉を連発する人の存在がおもしろくて、ずっとそばで聞いていたんだそうです。いなくなったので場所を移動したらマロニエ君がいたというわけです。まあお互いに馬鹿だなあと思いますが、こういう気が合うと合わないとでは、友人といってもまたく関係の質がかわるものです。

近ごろは、自分の考えとか感想を無邪気に言えないという点では、精神的に暗く不健康な時代になりました。とくに話の対象が特定の個人であったりすると、露骨なくらい消極的な反応となり、スーッと話題を変えていく人が少なくありません。いまここで何かを言ったところで、困るような言質をとられるわけでもなし、別にどうということもないのに、そうまでして安全を選ぶのかと、相手の心底が透けて見えるようで嫌な気がします。しかし、それを荒立てても詮無いことなので、こちらも内心では舌打ちしつつ抵抗はしません。まるで表面だけ笑顔の、守秘義務を負った弁護士と話しているみたいで、ぜんぜん楽しくないし、そういう人とは本当に楽しい付き合いにはなりません。

マロニエ君のまわりにはそれでも比較的昔風の無邪気な輩がわずかに残っていて、たとえば別の友人が、ずいぶん前のことですが、バスに乗車中、なんとそのバスと車が接触事故になったとのこと。べつに怪我人がでるようなことではなく、ただ街中でちょっと車体同士が擦れたぐらいのことだったようです。
むろんバスは道の真ん中で停車し、それから前方であれこれと接触後の対処がはじまり、運転手も会社との連絡やらなにやらで乗客はそのままで、ずいぶん長いこと放置されるハメになったらしいのです。普通なら「何をしているんだ!」と文句のひとつも出るところでしょう。

ところが、さすがはマロニエ君の友人だけのことはあって、なんと、こういう状況が実がめちゃくちゃに楽しかったのだそうで、そこが笑えました。あまりにも嬉しくて、そのためには何時間ここで待たされても構わないと、腹をくくっていたのだそうですが(楽しいから)、結果は期待よりも早く降ろされてしまって残念だったとか。
平日のことで、そのために仕事にも遅れが出るわけですが、友人に云わせると「そんなのは関係ない」「だって自分のせいじゃないんだもん」なんだそうで、偶然そんなバスに乗り合わせた自分の幸運が、うれしくて仕方がなかったというのですから、あっぱれです。

こういう「けしからぬこと」を笑顔で堂々と言える人は絶滅危惧種になりました。