ムラロと偉丈夫

今年の1月にトッパンホールで行われたロジェ・ムラロによる、ラヴェルのピアノ作品全曲演奏会の中から、クープランの墓、夜のガスパールなどがクラシック倶楽部で放映されました。

先に書いた「まるでスポーツ」はこれがきっかけとなった文章でした。

ムラロ氏は演奏に先立って、インタビューでラヴェルには音の明晰さが必要だと語っていましたが、その演奏を聴いてみて、彼の云う明晰と、聴く側がその演奏から感じる明晰との間には、いささか隔たりがあるように感じました。

全体にシャープさがなくもっさりしていて、ラヴェルに不可欠と思えるクールさとか、ガラスの光を眺めるような趣は、マロニエ君にはまったく感じられませんでした。というか、そもそもこのムラロ氏がフランス人であるというのも、どこか納得できないような田園風の雰囲気であり、その演奏でしたので、セヴラックならともかくラヴェルはちょっと…という感じです。

少なくとも、まったくマロニエ君のセンスとは相容れないラヴェルで、感性が合わないと1時間弱の番組を見るだけでもそれなりに忍耐になります。実際のコンサートはというと午後3時から6時45分終了予定とあり、うひゃあ!という感じです。

プロフィールでは『パリでのメシアン《幼な子イエスにそそぐ20の眼差し》を演奏の際に作曲家本人から激賞され、メシアン作品演奏の第一人者として認められた。』とあり、日本でも同曲の全曲演奏会をおこなったとありますが…ちょっとイメージできません。
テクニックにおいても、岩場のような堅牢さはあるけれど、音楽表現のためのあらゆるテクニックが準備されている人とは、このときは到底感じられませんでした。
聴いた限りでは「明晰さ」よりはむしろ「鈍さ」を感じる演奏だったというのが率直なところ。

ミスタッチも多く、べつにミスタッチをどうこういうつもりはないのですが、それは純然たるミスというより、あきらかな準備不足からくるものであると感じられ、やはり全曲演奏などろくなことがないと思ってしまうのです。

ところで、その明晰さにも繋がることですが、ムラロはコンサートグランドがひとまわり小さく見えるような偉丈夫で、長身かつそのガッシリした骨格は、まるでアメリカあたりの消防隊長のようで、ピアニストにはいささか過剰なもののように感じました。
こういう体格の人に共通するのは、そのビッグサイズの身体を少々持て余し気味なのか、背中を大きく曲げ、いつも遠慮がちで、その表現やタッチは抑制方向にばかり注意が向いているような、ある種のもどかしさみたいなものが演奏全般を覆ってしまいます。

その抑制が災いしてか、ピアノの音もどこか張りや緊迫がなく、モッサリした感じになってしまうのは彼ひとりではないように思いました。
偉丈夫のピアニストとして最も有名なのはかのラフマニノフでしょうが、まあ彼は別として、クライバーン、ブレンデル、現役ピアニストで頭に浮かぶのは、ルサージュ、ベレゾフスキー、パイク、リシェツキなどですが、やはりいずれも音楽が大味です。音にも鮮烈さや色彩感が乏しく、もっぱら強弱のコントロールと矮小化された解釈、それを骨格だけで演奏しているように感じてしまいます。

変な言い方をすると、その大柄な体格でピアノが制圧されているかのようです。
私見ながら、ピアノに限っては、ほんのわずかにピアノのほうが勝っていて、それをピアニストがなんとか克服しようとする関係性であるほうが、結果として魅力的な演奏になるような気がします。