このところ立て続けに真新しいスタインウェイによるコンサートの様子をテレビで見ました。
ひとつは京都市交響楽団の定期公演から、ニコライ・ルガンスキーによるラフマニノフの2番、もうひとつは北海道北見市公開収録による、宮田大チェロ・リサイタルで、ピアノはフランスのジュリアン・ジェルネ。
いずれも、今流行の巨大ダブルキャスターを装備した、ピッカピカのスタインウェイですが、京都と北海道と場所もホールも、ピアノもピアニストも、録音も違うし、なにより協奏曲とチェロとのデュオという編成もまったく異なるという、むしろ共通項を見出すことのほうが難しい2つでした。
マロニエ君の持論ですが、実演主義の方からは叱られそうですが、どんなに条件が異なっても、楽器や演奏家の本質は、意外にも機械はよく捉えている場合が珍しくなく、そこで抱いた印象は実演に接してもほとんど変わらないという自分なりの経験があります。
もちろん大雑把なものではありますが、でも、これを修正しなくてはいけないような事例がほとんどないのも正直なところです。
さて、この二つのコンサートで使われたスタインウェイは、その本質において、マロニエ君の耳にはほとんど同じという印象でした。それだけ近年は製品のばらつきも極力抑えられ、それだけ意図した通りの均等な製品が着々と生み出されているということでもあり、これは同時に欠点さえも見事なまでに共通しているように思いました。
まず往年のスタインウェイ固有のカリスマ性はもはや無く、ピアノとしてのオーラとパワーはかなり薄められ、コンパクトになったピアノという印象。
まるでかつての大女優が、普通の美人になった感じでしょうか。
スタインウェイとしての名残はあるとしても、音の美しさも表面的で機械的。だんだんに無個性な、日本製ピアノともかなり似通った性格のピアノになっていると思います。
とりわけハンブルク製にもアラスカスプルースが使われるようになってからは、音に輝きとコクがなくなり、深い響きや透明感、音と音が重なってくるときの立体的な迫真性みたいなものが、もうほとんど感じられません。
昔のスタインウェイはたとえ拙い演奏でも、どこか刃物にでも触るような興奮と、底知れないポテンシャルに畏れさえ感じたものですが、その点では普通の優秀なピアノに過ぎなくなった気がします。
コンチェルトなどでオーケストラのトゥッティの中から突き抜けて聞こえてくるスタインウェイの逞しさと美しさが合体したあのサウンドは、すっかり痩せ細ってもどかしさすら覚えます。
ラフマニノフの第二楽章のカデンツァでは、最も低いH音から上昇する属七のアルペジョがありますが、昔のスタインウェイはここで鐘が鳴るようなとてつもない音を出したものですが、今回のピアノはゴン…という普通のピアノの音でしかなく、あまりのことに悲しくなりました。
チェロとのデュオでは、マイクが近かったせいもあって、よりダイレクトな音が聞かれましたが、深みのないブリリアント系の音色が耳障りであったこともあり、一緒に見ていた家人はこのピアノは○○○?と日本製のメーカーの名前をつぶやきました。
最近のスタインウェイはたまに実物に接しても、仕上がりの完璧な美しさには驚かされます。でもそれは、職人の丹精が作り出した美しさではなく、無機質で機械的なものです。その音と同様に工業製品としての生まれであることを感じてしまうのは寂しさを感じてしまいます。
ここまで書いたところで、さらにブフビンダーがN響と共演したモーツァルトの20番を聴きましたが、またまた同じ印象で、立て続けに3度驚くことになりました。会場はサントリーホールですが、ここも新しいピアノに変わっており、モーツァルトであるにもかかわらず、ピアノが鳴らず、まるで蓋を閉めて弾いているみたいでした。