古びた新しさ

マリア・ジョアン・ピリスはとくに好きでも嫌いでもないピアニストですが、個人的には、どちらかと云えば積極的に聴きたくなるタイプではないというのが偽らざるところでしょうか。

すでにピリスも70歳を目前にした最円熟期にあるようですが、マロニエ君はこの人をはじめて知ったのは、高校生の頃、日本で録音したモーツァルトのソナタ全集を出したときからで、そのLPレコードは今も揃いで持っています。

DENONの最新技術によりイイノホールで録音されたのが1974年で、たぶんこれを初めて聴いたのはその2、3年後のことだろうと思いますが子供でしたし、正確なことは覚えていません。それまでのモーツァルトといえば、ギーゼキングを別格とするなら、当時の現役では圧倒的にヘブラーで、それにリリー・クラウスだったように思いますが、とりわけヘブラーのモーツァルトはこの時期の正統派と目された中心的存在でした。

ウィーン仕込みの典雅で節度ある、いかにも女流らしいスタイルで、わかりやすい型のようなものがあり、モーツァルトはかくあるべしといった自信と格式にあふれていました。
そんな時代に登場してきたピリスのモーツァルトは、それまでの既成概念というか、モーツァルトを演奏するにあたっての慣習のようなものを取り払ったストレートで清純な表現で、これがとても新鮮な魅力にあふれていて忽ちファンになったものでした。

LPレコードのジャケットには、一枚ごとに録音時に撮られたピリスの写真が多数ありましたが、それまでの女性が演奏するレコードのジャケットといえば、ロングドレスなどフォーマル系の衣装であるのが半ば常識だったところへ、ピリスはまるで普段着のようなセーターにジーンズ、ペダルを踏む足はスニーカーといったカジュアルな服装であることも強いインパクトがありました。
さらにはこのときおよそ30歳だったピリスは、まるでサガンか、あるいはその小説に出てくるような多感で聡明そうなボーイッシュなイメージで、なにもかもが新時代の到来を感じさせるものでした。

その演奏は因習めいたものや権威主義的なところから解放された、専ら瑞々しいセンスによって自分の感性の命ずるまま恐れなくモーツァルトに身を投げ出しているように感じたものです。
その後、ピリスは着々と頭角をあらわし、ドイツグラモフォンと契約をして90年代に再びモーツァルトのソナタ全曲録音に挑みますが、マロニエ君はなんとなく瑞々しさの勝った初期の全集のほうが好みでした。

とはいその初期の全集も、もうずいぶん長い間聴いていなかったので、CD化されたBoxセットを手に入れ、実に数十年ぶりに若いピリスが日本で録音したモーツァルトを耳にしました。ところがそこに聞こえてくる演奏は、記憶された印象とは少なくない乖離があったことに予想外のショックを覚えました。

当時あれほど清新な印象で聴く者をひきつけた若いピリスでしたが、そのモーツァルトには意外な固さがあり、アーティキュレーションも古臭く聞こえてしまいました。
全体がベタッとした均一な印象で、モーツァルトの悲喜こもごもの要素が滲み出てくる感じが薄く、あれこれの旋律が聴く者に向かって歌いかけてくるとか、弾力にあふれたリズムが表情のように思えるような要素が少なく、一種のそっけなさを感じてしまいました。
モーツァルトは、できるだけ彼に寄り添って演奏しないと微笑んでくれないようで、作品そのものが寂しがり屋のようです。

考えてみれば、この数十年というもの、古典派の音楽はピリオド楽器と奏法の台頭によって、その演奏様式までずいぶん変化の波が押し寄せたわけで、それはモダン楽器の演奏にも少なくない影響があり、聴く側にも尺度の修正が求められたようにも思います。

新しさというものは、普遍的な価値を獲得して生き延びるか、さもなくば時代の変化によって、古いファッションみたいな位置付けになってしまうことがあるということかもしれません。