自由な気分

マロニエ君はとくに相撲ファンというものではありませんが、祖父が大変な相撲好きであったためか、なんとなく場所がはじまるとダイジェスト的な番組は見るような習慣がありました。

決して熱心というわけではなく、主だった力士の顔と名前は覚える程度で、なんとなく中入後の大まかな行方や、今場所の優勝争いは誰と誰ぐらいは掴んでいるというのが普通でした。

ところが、今場所はまったくといっていいほど大相撲からは距離をおいていて、意志的に見ないことにしています。
これは先場所が終わった直後から決めていました。理由は今場所から横綱が3人になり、そのうちの2人がマロニエ君の嫌いな力士で、ほとほとイヤになったという至極単純なものです。

横綱というのは大相撲の顔であり象徴でもあるので、そこに居並ぶ顔はイメージの上でも非常に重要だと思っています。
これがもし、筋金入りの相撲ファンなどであれば、そういう個々の好き嫌いは超越して相撲そのものをウォッチするのでしょうが、その点で普通の人間は、もともと大した関心事でもないだけに、ちょっとしたことでひょいと背を向けてしまいます。

「ファンというものは無責任で、その心は移ろいやすいもの」といいますが、ファンではないけれどまさにそれです。これが野球やサッカーならコアなファンも多く、彼らがしっかりと支えていくのかもしれませんが、大相撲の場合「なんとなく見てるだけ」という程度の人が実際には多いのではないかと思います。


ちなみに、むかしは横綱昇進には強さと成績が問われることはむろんとしても、ただ白星の数だけ積み上げればいいというわけではないグレーゾーンもあって、そこは横綱審議委員の裁量などが大きく働いたようです。しかし今の時代はそれを許さず、横審の旦那衆的な意向を中心に事が左右されることはないようです。より明確で平等な基準がもとめられ、昇進の条件もよりシステマティックになったように感じます。

いい例が、ちょっと大関が優勝でもすると、NHKはすかさず次の場所は「綱取り!綱取り!」とうるさいほど言い立てるし、今では二場所連続優勝もしくはそれに準ずる成績であれば、ほぼ間違いなく横綱になるようです。

星勘定による成績至上主義というべきで、白星の数がすべてのようです。
しかし、マロニエ君は個人的には相撲は勝負であると同時に娯楽であり興行であり、そこには歌舞伎などに通じる享楽性がなくてはならないと思います。茶屋があって贔屓筋があり、きれいな髷を結い、常に掃き清められる美しい土俵、華麗な行司の装束を見ただけでもそれは察せられます。むろん八百長はいただけませんが。

だから、嫌いな役者の芝居を見たくないように、今は見たくないという気分なのかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

もし大相撲を純粋のスポーツであり格闘技としてみるなら、力士は総当たり制の勝負に出るべきで、同部屋同士の対決がないというのも理を通せば納得がいきません。

相撲には神道の要素やエンターテイメントの要素も色濃く、それでいて真剣勝負でもあり、それを確たる言葉で表現するのは甚だ困難なものがあることは、日本に生まれ育った者なら自然にわかることです。

大江健三郎氏ではありませんが、あいまいな日本のあいまいさが絶妙の世界を作り出し、長きにわたって継承されてきた部分が大きいとも思いますが、そういうものは現代の価値基準に合わなくなってきているのでしょう。
現代の尺度で分類すれば、所詮はスポーツなのであり、格闘技なので、その勝敗がものを云うのは致し方のないことだと理屈では思います。

それはそうだとしても、人の気持ちばかりはどうにもなりません。
イヤなものはイヤなのであって、それを押してまで見る気にはなれないのです。
今日は今場所の中日ですが、力士の成績がどうなのかもまったく知りませんが、不思議にとても自由な気分です。