ふたつのSTEIN

ほぼ同時期に買った2つのCDが期せずしてシューベルトのピアノ曲となり、驚くべきは「さすらい人」「3つのピアノ曲」など、収録時間にして全体の約半分が重複しており、この偶然にはびっくりでした。

そもそもマロニエ君は曲云々で選ぶというより、直感的に「聴きたいと思う決め手がある」かどうかが購入のポイントです。
その結果、思いがけない直接比較が出来ることと相成りました。

ひとつはフランス人のベルトラン・シャマユで、ピアノは2005年あたりに製造されたスタインウェイD-274を弾いたもの、もうひとつは先日も書いたロシア人のユーラ・マルグリスの演奏で、ピアノはバイロイトの名器、シュタイングレーバーの弱音器つきD-232です。

共通しているのは、両者共に男性の中堅ピアニストであり、ソナタ以外のシューベルトを演奏しているという点でしょうか。

弾く人によって、同じ曲でも大きく印象が異なることは当然ですが、ほぼ同時期購入という意味で、否応なく比較対象となってしまいました。

両者の演奏は、まず洗練と無骨という両極に分かれます。

【ベルトラン・シャマユ】
シューベルトの息づかいや心の揺れをセンシティヴに音にあらわし、泡立つような可憐な音粒で演奏。そこにある洗練は専らフランス的なセンスと明るさが支配して、ある意味ではショパンに近いようなスタイルを感じることもある。隅々まで細やかな歌心と配慮に満ちた神経に逆らわない演奏。
リストによるトランスクリプションでは折り重なる声部の歌いわけも見事。
大きすぎないアウディかレクサスでパリ市内を流してしているようで、目指すはオペラ座かルーブルか。

【ユーラ・マルグリス】
作曲者や作品の研究や考証というより、むしろ自分の意志やピアニズム表現のためにシューベルトの作品を使っているという印象。緩急強弱、アクセント、ルバートなど、いずれも、なぜそこでそうなるのか、しばしば意味不明な表現があり、恣意的な解釈を感じる。
ロシア的感性なのか、重々しい誇張の過ぎた朗読のようで、何かを伝えたいのだろうがそれが何であるかがよくわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンで田舎へ出むき、何か専門的な調査しているかのよう。

ただし、ピアノという楽器の素朴な魅力に満ちているのはシュタイングレーバーで、スタインウェイは比較してみるとピアノというよりは、もう少し違う音響的な世界をもった楽器という印象をさらに強めました。

全体を壮麗な音響として変換してくるスタインウェイとは対照的に、シュタイングレーバーは聴く者の耳に、一音一音を打刻していくような明瞭さがあります。ハンマーが弦を打ってその振動が駒を伝わり響板に増幅されるという、一連の法則をその音から生々しく感じ取ることができるという点では、いかにもピアノを聴いているという素朴な喜びが感じられます。

むしろシュタイングレーバーにはピアノを必要以上に洗練させない野趣を残しているのかもしれません。良質の食材もアレンジが過ぎると素材の風味が失われるようなものでしょうか。
これに対して、スタインウェイははじめから素材の味を飛び越えて、別次元の音響世界を打ち立てることを目指し、それに成功した稀有なピアノという印象。

それはそうだとしても、このCDに使われた時期のスタインウェイには、もはやかつてのようなオーラはなく、不健康に痩せ細った音であることは隠しようもありません。公平なところ、このメーカーの凋落を感じないことはもはや不可避のように思われます。