本来の作法

モーストリー・クラシックの6月号をパラパラやっていると、へぇという記事に目が止まりました。

2006年、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲をライブで収録した後、ピアニストとしての活動休止宣言をしていたプレトニョフが、モスクワ音楽院にあるシゲルカワイ(SK)-EXとの出会をきっかけに、再びピアノを弾く気になったというものです。

ロシアのピアニストで指揮者のミハイル・プレトニョフは、1978年のチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で優勝、初来日公演にも行きましたが、そのテクニックは凄まじいばかりで、演奏内容もきわめて充実しており、ただただ驚嘆させられた記憶があります。

これは近い将来、間違いなく世界有数の第一級ピアニストの一人になるだろうと確信したほどです。ところが何年たっても期待ほどの活躍でもないように思っていたら、ロシアナショナルフィルを創設して、もっぱら指揮活動に打ち込むようになり、「ああ…そっちに行ったのか」と思っていました。

ピアニストとしてあれほどの天分を持ちながら、オーケストラを作って指揮に転ずるとは、ご当人はやり甲斐のあることをやっているのだとは思いつつ、ピアニストとしての活躍に期待していた側からすれば少々残念な気がしてたものです。

ところがそのプレトニョフ率いるロシアナショナルフィルは望外の演奏をやりだして、ドイツグラモフォンから次々にロシアもののCDがリリースされました。チャイコフスキーやラフマニノフのシンフォニーなど、かなりの数を購入した覚えがあります。
まったくピアノを弾いていないわけでもなかったようですが、オーケストラの責任者ともなればピアニストをやっている時間はないのだろうと思っていると、伝え聞くところでは、近年は自分が弾きたいと思うピアノ(楽器)がなくなってしまったことがピアニストとしての活動を減ずる大きな要因になっている旨の発言をしたようです。

その証拠に、2006年のベートーヴェンのピアノ協奏曲では、普段なかなか表舞台に登場することの少ないブリュートナーのコンサートグランドが使われています。聴いた感じでは、まあ楽器も演奏もそれなりという感じでしたが…。

プレトニョフがこの録音の後にピアニスト休止宣言をしたということは、ブリュートナーさえも彼の満足を得ることはできなかったということのようにも解釈できます。

そんなプレトニョフにSK-EXとの邂逅があり、昨年はそれが契機となってモスクワでリサイタルをやった由、よほどの惚れ込みようと思われます。その後はロシアナショナルフィルとの来日でカワイの竜洋工場を訪れ、そこでなんらかの約束ができたのかもしれません。

雑誌によれば今年5月には7年ぶりのアジアでのピアニスト再開ツアーを行う(すでに終了?)とのことで、カワイのサポートのもとにリサイタルやコンチェルトなどが予定されているということが記されていました。

マロニエ君はSK-EXによるコンサートは何度も聴いていますが、コンサートグランドとしては率直に云ってそれほどのピアノとも思っていませんが、それはそれとして、ピアニストが楽器にこだわるというのは非常に大切な事であるし、それが当たり前だと思います。
演奏家がこれだと思う楽器で演奏し、それを聴衆に聴かせるということは、少々大げさに云うなら演奏家たるものの「本来の作法」だとも思います。

例えばヴァイオリニストが身ひとつで移動して、各所で本番直前にはじめて触れるホール所有のヴァイオリンで演奏するなんて、そんな非常識はおよそ考えられませんが、ピアニストは実際にそれをやっているわけです。すべてはピアノの大きさに起因する物理的困難、さらにはそれが経済的困難へとつながり、多くのピアニストは理想の楽器で演奏することを断念させられ、楽器への愛情さえも稀薄になってしまっているように…。

でも、本来は人に聴かせるコンサートというものは、それぐらいの手間暇をかけるものであって欲しいと思います。