アラウの偉大さ

真嶋雄大氏の著作『グレン・グールドと32人のピアニスト』という著作の中で、意外な事実を知りました。

グールドといえば、まっ先に頭に浮かぶのはバッハであり、とりわけゴルトベルク変奏曲です。レコードデビューとなる1955年の録音は世界中にセンセーションを巻き起こし、ここからグールドの長くはない活躍が本格的なものになっていったのはよく知られている通りです。

マロニエ君がゴルトベルクを初めて耳にしたのも、むろんグールドの演奏からでした。

グールドよりも先にこの曲を全曲録音したのはチェンバロのワンダ・ランドフスカであることは知られていますし、ランドフスカと同時期にゴルトベルクを録音したアラウが、敬愛するランドフスカへの配慮から自分の録音の発売を辞退したことは、それからはるか数十年後にアラウのCDが発売されたのを購入して解説を読んで知りました。

ところが、この本によると、さらに驚きの事実が記されています。
なんと、ゴルトベルクの全曲録音はランドフスカこそが「史上最初の人」なのだそうで、それまではこの作品を全曲演奏し録音した人はいなかったというのです。さらに録音から40年間お蔵入りになったアラウのゴルトベルクは、モダンピアノで弾かれた、これもまた「史上最初の録音だった」ということで、今日これほどの有名曲であるにもかかわらず、その演奏史は思いのほか浅く、たかだかここ6〜70年の出来事にすぎないことには驚かされます。

ランドフスカのゴルトベルクはずいぶん昔に聴いてみたことはありますが、グールドの切れ味鋭い演奏が身体に染みついていた時期でもあり、そのあまりのゆったりした演奏にはショックと拒絶感を覚えてしまって、その後は聴いた記憶がありません。

それに対して、アラウのほうは特につよい印象はなかったものの、「モダンピアノでの初録音」というのを知ると、俄に聴いてみたくなりました。
ホコリの中からアラウ盤を探し出し、おそらくは20年以上ぶりに聴いてみましたが、モダンピアノ初などとは思えない闊達な演奏で、今日の耳で聴いてもほとんど違和感らしきものはありません。いかにもアラウらしい信頼性に満ちた演奏でした。

アラウについての記述にはさらに驚くべきものがあり、20世紀前半まではバッハをコンサートのプログラムに据えるというのはまだまだ一般的ではなかったにもかかわらず、彼は11歳のデビュー当初から平均律グラヴィーア曲集などを弾き、1923年にはバッハ・プログラムで4回のリサイタル、さらにベルリンでは1935年から翌年にかけてバッハの「グラヴィーア作品全曲」を弾き、しかも史上初の暗譜によるバッハ全曲演奏だったとありました。

かつての巨匠時代、アラウといえば、どこかルビンシュタインの影に隠れた印象があり、よくルビンシュタインを春に、アラウを秋に喩えられたことも思い起こします。
しかし、いま振り返ってみると、個人的な魅力やスター性とかではなくて、純粋にピアニストとしての実力という点でいうと、マロニエ君はアラウのほうが数段上だと思います。

アラウの膨大なレパートリーは到底ルビンシュタインの及ぶものではないし、味わい深く誠実でごまかしのないピアニズムは、今日聴いても充分に通用するものだと思われます。
そこへ一挙にバッハのグラヴィーア作品全曲がその手の内にあったとなると、その思いはいよいよ強まるばかりです。