ディナースタイン

近ごろ、バッハ演奏で頭角をあらわしているシモーヌ・ディナースタインのゴルトベルクを買ってみました。
どうもモダンピアノで弾くゴルトベルクは、グールド以来、ニューヨークから発信する作品であるかのようで、以前書いたジェレミー・デンクも同様でした。

さて、このディナースタインはニューヨーク生まれのニューヨーク育ちで、学校もジュリアード、デビューもカーネギーホール、録音も、なにもかもがニューヨーク一色です。

グールドがレコードデビューしたゴルトベルクもニューヨークで録音され、その驚異的な演奏が世界中に衝撃を与えたことはあまりにも有名ですが、以降、まるでこの作品だけは住民登録をニューヨークに移してしまったかのようです。

さて、そんなニューヨークずくめのディナースタインですが、ゴルトベルクを録音するにあたってひとつだけニューヨークでないものがありました。これだけニューヨークずくしなのだから当然ピアノもニューヨーク・スタインウェイだと思いきや、なんと彼女が弾いているのは1903年製のハンブルク・スタインウェイで、これには却ってインパクトを感じます。

このピアノは、北東イングランドのハル市役所に所蔵されていたという来歴をもつ有名なピアノだそうで、数々のエポックなコンサートで使われ、2002年にはニューヨークのクラヴィアハウスというところで修復作業を受けたもののようです。
その音はとても温かみのある美しいものでしたが、どう聴いても響板が新しい音なので、修復の際に貼り替えられたのだろうと推測されます。マロニエ君としては、古いピアノ特有の枯れた楽器の発する美しい倍音に彩られた、威厳と風格に満ちたトーンを期待していましたが、そこから聞こえる音は無遠慮なほど若い響板の音のようにマロニエ君の耳には聞こえました。

もちろんボディやフレームは昔のものですから、それなりの味は残っていると見るべきでしょうが、どちらかというとアメリカという国はやわらかなピアノの音を好み、響板の張替にたいしても他国よりこだわりなくやってしまう印象があります。
個人的な印象では、やはりアメリカ人は本質的に消費の感性が染み込んだ民族で、響板も消耗パーツと見なして、問題がある場合はさっさと取り替えてしまう傾向を感じます。
先人の創り出したオリジナルを尊重し、それを極限まで損なわないよう心血を注ぎこむ日本人とは、目指すものが根本に於いて違うのかもしれません。

これが100年以上前のピアノ音だといわれても素直にそう思う気持ちにはなれませんが、単なる音としてはとても上品で豊かさに満ちた上質なものだとは思いました。ただ、響板という中心部分が新しいものに変わっているという違和感はマロニエ君にはどうしても拭えず、もう少し時間が経つとなじんでくるのかなぁという気がしないでもありません。

ディナースタインの演奏に触れる余地がなくなりましたが、母性的な包容力でこの大曲をふわり包み込み、やさしげな眼差しを注いでいるような演奏でした。そよ風のような穏やかなゴルトベルクで、この演奏にはこのピアノの馥郁たる音がよく似合っていることは納得です。

これはこれでひとつの完成された演奏だと思われますが、さりとて、とくに積極的に支持するというほどでもないのが正直なところです。
ゴルトベルクの複雑な技巧に対する手さばきや高度な音の交叉や躍動を期待すると、ちょっと肩すかしをくらうかもしれません。
この作品を弾くあまたの男性ピアニストのような技巧の顕示は一切ないけれども、逆に、この難曲からそれらの要素を徹底して排除して見せたという点が、もしかすると彼女なりの顕示なのかもしれません。