お詫びのプロ

最近テレビを視ていて気になること…。

例の号泣県議や、逮捕された芸能人など、不祥事があるたびに「お詫びの仕方」についてあれこれの批判が聞こえてきます。
しかもそれが、一般的な礼節としてのお詫びとはどこか趣の異なるところに奇妙さを感じます。

近ごろはテレビ画面に露出するようなお詫びには一種のマニュアルのようなものがあるようで、その型に添ったものでないと批判の対象になるという気配を感じるのです。

薬物で逮捕された芸能人が仮釈放で出てきたときも、とりあえず逃げ隠れせず、スーツ姿で警察の正面玄関をまっすぐに出てきて、居並ぶマスコミのカメラに向かって深くお辞儀をし、その後横向きに立ち去っていきました。

すると後から「お詫びの言葉がなかった」「ファンへの謝罪の言葉があるべき」というような批判が飛び交います。しかしマロニエ君は個人的に、別にこのときの彼の態度がとくに問題とは思いませんでした。有名人ではあっても公人ではないし、犯した罪は専ら個人的なもので、だからこんなものだろうと思うわけです。
問題なのは彼の犯罪行為であって、いまさらわかりきったようなお詫びの言葉を並べてみたところで、それでどうとも思いません。神妙な面持ちで姿をあらわし、深く頭を下げたというのは、これはこれなりのお詫びと反省の態度だったと思います。
すでに社会的な制裁は受けているし、今後は法に基づいた裁判があり、それで償いを科せられるわけで、それでじゅうぶんではないかと思います。

ところが、最近は何かというと「お詫びのプロ」という人物が出てくるのは理解に苦しみます。
まるで、お詫びというものが専門分野であるかのようで、その指南役というような扱われ方でテレビに堂々と登場し、訳知り顔であれこれ発言するのは強い違和感を感じます。

歌舞伎役者が暴力事件を起こしたときも、企業や公的組織の不祥事に際しても、大抵この種のプロという人の指南が入っているようで、服装からお詫びの口上、お辞儀をする角度から、何十秒それを維持するなど、見ている側は、どれも決められた形ばかりを追っているようにしか見えません。
心底お詫びをしているというよりも、少しでも世間の心証を害さぬよう、マイナスイメージを最小限に食い止めるべく最良とされる演技をしているようです。

少なくともそれをやっている人の一連の所作と心底が一致したもののようには、マロニエ君の目には見えません。

それでも日本は建前が大切なので、表向きそういうお詫びと反省の態度をとりましたということが大切なのかもしれませんが、いかにも打ち合わせと練習によるシナリオ通りの演技をみせられているだけといった印象で、これで本当に納得する人がいるのかと思います。

号泣会見でいまや世界的にも話題になった県議の場合でも、この「お詫びのプロ」という人が番組に出てきて、プロ(お詫びの)の目からみて「あれは0点でした」などと、いちいち専門家目線でコメントをするのは著しい違和感を感じてなりません。誰の目にも著しく常識を欠いた振る舞いであったことは、わざわざ「プロ」の意見を聞かずとも明白で、そこにあえてコメントを取りにいくテレビ局の見識さえ疑います。

お詫びというものは、まさに心を尽くして許しを請うのが本質であって、それをプロの指南のもと型通りに進めようというのは、むしろ詫びるべき相手への精神的非礼を感じてしまいます。