出しゃばりすぎない

2006年に「ピアニスト休止宣言」をしたミハイル・プレトミョフが、シゲルカワイとの出会いをきっかけに活動再開に至ったことは以前に書きました。

彼は今年5月、ピアニストとして久々の来日を果たし、そのことに関する本人のコメントが音楽の友の最新号のグラビアに掲載されていました。

それによれば、ピアニスト休止宣言をした理由を『当時のどのピアノの音にも我慢できなくなり、ピアニスト活動を止めました。けれども私はあるとき偶然にシゲルカワイに出会った』と語っています。

そして、シゲルカワイについては『このピアノは私がずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない、そして繊細きわまりない音色をもっていました。そして何より私が100%コントロールできるポテンシャルがあって、しかもそれが自然。このピアノなくしてピアニストとしての私はありません。』
…とのこと。

プレトニョフほどのメジャーピアニストが活動の休止宣言したにもかかわらず、日本製の優れたピアノとの出会いが再開するきっかけとなったとなれば、もちろん日本人としてはそこを喜びたいわけですが、これを読んで、なんというか…その理由というのが…もうひとつ手放しで喜べるようなものかどうかよくわからない気がしました。

「どのピアノの音にも我慢できなくなり」に対して「ずっと求めていた、決して出しゃばりすぎない」というのは、どう受け止めればいいのか…。ピアノはピアニストの道具なんだから、分をわきまえてよけいな主張はするなという意味にも受け取れます。
これは考えてみるとプレトニョフが指揮活動に重点を置いてきたことにも関係があるのだろうか…と思ってみたりもしました。『私が100%コントロールできるポテンシャル』というのもしかりで、ちょっと悪い言い方をすれば、優秀なオーケストラは指揮者の指令通りに音楽を生み出す集団でもあるし、しかも団員一人ひとりが意志と技術をもって指揮者の意に添って演奏すれば、かなり高い要求を満たすことはできるでしょう。

ただ、カラヤンのような極端な例もあるように、指揮者は往々にして権力者と揶揄されます。権力は魔物であって、しだいにイエスマンを求めるようになり、その体質が個性あるピアノさえも彼の意向に背くものになっていったということなのかとも勘ぐってしまいました。

日本のピアノが褒められるのは嬉しいとしても、褒められている内容が最も肝心なところでしょう。シゲルカワイはピアノがでしゃばるほどの個性が無く、その点が素直で大変よろしいと、まるで命令通りにせっせと働く従順な社員がワンマン社長から頭を撫でられているみたいで、少しでも出過ぎたことがあったなら、たちまちお払い箱になるのかという気がします。

ふと家臣を道具としか見なさない織田信長を連想しましたが、はてプレトニョフに信長ほどの稀代の独創性や異才があるのかどうか…。

どうせなら、気に入った理由がもっと積極的にそのピアノの個性や魅力であってほしい気がして、これではまるで、自分のじゃまにならない程度に控え目で地味なピアノがいいといっているように解釈してしまうマロニエ君はへそ曲がりなんでしょうか?

個人的には、SK-EXより、その前のEXのほうがある意味でまとまりがあったようにも思いましたし「でしゃばりすぎない良さ」もむしろこちらのような気がしますが、それはともかく、マエストロはSK-EXを「ういやつじゃ」とお気に召したということのようです。

でも、あまり、でしゃばる云々を言い出したら、突き詰めればマエストロの演奏だって、作曲者から同じことを云われかねません。ベートーヴェンの第4協奏曲などはプレトニョフの解釈がでしゃばりまくりだったという印象しかないのですが…まあ自分はいいんでしょうね。