趣味というもの

「趣味」というものの正しい定義や概念は未だによくわかりません。

少なくとも実用とは一線を画したものであることは間違いなく、余人から見れば無駄な、非生産的な、精神や情熱をむやみに濫費するもので、場合によっては愚かな行為であることだとさえ見なされかねません。

岩波の国語辞典(広辞苑が階下にあるので)によれば、趣味は『専門としてでなく、楽しみとして愛好する事柄』とあります。もちろんそれが高じて職業になる人も中にはおられますが、それはあくまで結果であり、そもそもの成立事情としては衣食住から外れた「楽しみ」が大前提です。

趣味は、実利とは無縁の世界の内奥に分け入って、楽しみの回廊をさまざまに歩き回ることにあるともいえるでしょう。いわば純化された情緒が主役となる世界で、こればかりは定年後時間ができたから何か適当な趣味を持とうか…というほど、趣味の扉を開くことは簡単なものではありません。
多くの場合、それなりの知識、経験、感性、努力、そして尋常ならざるエネルギーが必要で、しかもそれは趣味である限り一文の得にもなりません。

趣味とは、正当性や客観的価値と一切無関係に存在し、無駄を山積みにし、せっせとそれに向かって奉仕することそれ事態が喜びであるというところに、真の価値があるのだと思います。

いうまでもなく趣味はお金で安易に手に入れることはできず、手間暇のかかるもの、いや、手間暇そのものを楽しむものだともいえるでしょう。そこに一朝一夕には到達できない深さがあるわけで、だから価値があるのかもしれません。一見無駄だらけに見える趣味ですが、物事の真髄に触れるという点では、趣味を通じて学ぶことの多さという点でもきわめて偉大な教師にもなりうると思います。

趣味をお金で買うことはできないけれども、趣味のためにお金を使うことは必要なことだというのがマロニエ君の持論です。金額は人によって違うでしょうが、その人にとってかなりきわどい出費を趣味に投じることができるかどうか…ここがポイントのような気がします。

実はマロニエ君の知り合いで、音楽趣味が高じて近年ヴァイオリンを始められた方がおられます。それなりの良い楽器を買われたということは聞いていましたが、ごく短期間のうちにグレードアップして、なんとクレモナの新作ヴァイオリンへ買い換えられたと聞いて驚きました。

しかも、その方は持論として「分不相応な楽器を持つこと」への疑問をお持ちの方だったのですから驚きもなおさらでした。その「分不相応な楽器不要論者」の方が、自説をかなぐり捨てての購入だったわけで、マロニエ君はそこがいかにも趣味人としておもしろいじゃないかと思いました。

たしかに、まともに理屈で考えれば初心者からせいぜい中級レベルの腕しかない者が、名器云々というのはナンセンスでしょう。しかし、趣味人が冷静な理屈だけで心がおさまるかといえば、そんなことはあるはずがないのです。だって趣味なのですから!
技量と道具のバランスを計るべきは、むしろプロのほうかもしれません。

したがって、趣味が真っ当な正論の範囲にちんまり収まっている限り、その人の趣味は趣味であるかどうかも疑わしいとマロニエ君は思うのです。
出費や犠牲を厭わず、趣味にへの熾烈な欲求があることも趣味人の特徴のひとつで、実際にそれだけの気構えがあるかどうかという点でも、趣味に対する覚悟のほどが窺われます。

マロニエ君の知人に鉄道マニアがいて、彼は全国のすべての鉄道を乗るためだけに、休みの大半を使って年中旅をしていました。しかも上下線すべてというのですから、まったくもって恐れ入るところ。

ただ「好き」というだけでは、なかなかできることではない次元の話です。
趣味はある種の壮絶と孤独が混ざり込んできたとき、真の輝きを放つものかもしれません。