現代の優位性

楽器としてのピアノの質が材質と製造の手間暇につきるのだとすると、現代のピアノの優位性は無いと云うことなのか…。

優れたピアノを作るための基本的要素が、好ましい材料(天然資源)と、それを理想的に組み上げる人の手間暇(人件費)だとすると、いずれも今の時代に背を向けるような、効率重視の価値観にはまるでそぐわないものであることは明らかです。

手間暇に関しては、あとから技術者の努力によってまだしも挽回できる部分があるとしても、材質に関しては生まれもつものなので打つ手がありません。

とりわけボディを構成する材料は、そのピアノの生涯にわたる価値と個性を決定するもので、これはいったん作られてしまうと後手を差し込む余地がありません。したがって粗悪な木材や代用品など安価なまがい物で作るという方針である以上、どれほどの高度な技術を投入しようとも、本質に於いていいピアノができる筈はないと見るべきでしょう。

したがって木材や羊毛など優良品の確保が難しい現代では、ピアノの品質低下は当然の成り行きと云えます。この点に於いては少量生産のごく一握りの例外を除いて、ほぼすべてのピアノに見られる傾向だといえるでしょう。

どれほど技術の粋を凝らしても、好ましくない素材や工法で作られたピアノは、表面的な美しさや弾きやすさで一時の気を引くだけです。無機質で優秀な工業製品としての色合いが強まり、楽器の要素を大胆に手放してしまっているという事実は否めません。

ピアノには、天然素材を必要とするという前提が横たわっている限り、いかにテクノロジーが飛躍を遂げようとも、黄金期のそれを凌駕することは本質に於いてないのでしょう。

では、黄金期のピアノより現代のほうが優れている面がまるきりゼロかというと、必ずしもそうとも思いません。

たとえば廉価品のピアノに関して云えば、実はマロニエ君もよくは知らないのですが、昔のピアノの安物ときたらそれはそれは酷いものがあったようです。技術者が唖然とするような構造であったり、ほとんど冗談みたいなちゃちな作りのピアノも多々あったと云いますから、その点で云えば、すくなくとも量産ピアノの構造や品質は飛躍的に上がっているように思います。

高級品まで含めた範囲で云うなら、現代のほうが優れているだろうと思える部分は鍵盤からアクションに至るセクション、すなわち機械的部分ではないかと推察できます。アクションは要するに小さくて精密なパーツの集合体であり、それらの正確な作動は、つまるところ箇々のパーツの精度に行き当たります。

こればかりは、手作りや職人芸を尊ぶことより、機械による均一で精巧なパーツであることがなにより重要な分野だと考えられるからです。その点ではコンピュータによる正確な図面、さらには人の手の及ばぬ精巧無比の仕事をする工作機械の登場によって、昔とは比較にならないレベルへと向上した筈です。

おそらく昔のピアニストは、アクションやタッチに関してはかなりの妥協を強いられていたのではないかと思われますし、グールドなども現代のアクションがあれば晩年のピアノ選びの苦労はなかったのではと思われます。

と、ここまでは技術者的見地の話ですが、では、あまりにむらのない、限りなく完璧に近い理想のアクションがあったとして、それが即、芸術的演奏に直結するのかというと、これはまた別の話のような気がするわけで、かくも楽器とは難しいものということでしょう。