天才のゆくえ

いまからおよそ30年近く前、キーシンの登場をきっかけとして、いわゆる「神童ブーム」というものが湧き起こったように記憶しています。

パッと思い出す代表的な名前だけでも、エフゲーニ・キーシン(P)、コンスタンツィン・リフシッツ(P)、セルジオ・ダニエル・ティエンポ(P)、ヴァディム・レーピン(Vl)、マキシム・ヴェンゲーロフ(Vl)、五嶋みどり(Vl)、サラ・チャン(Vl)、マット・ハイモヴィッツ(Vc)などで、まだまだ忘れている名前がたくさんあると思います。

こうした神童ブームは、声楽の世界にも及んで、アレッド・ジョーンズなど天才と呼ばれる少年が幾人か含まれていましたが、その中で破格の才能を示していたのがアメリカのベジュン・メータでした。

彼を知ったのはデビューCDを購入してみたことで、そこにはヘンデルやブラームスの歌曲が収められており、記憶違いでなければ収録時の年齢はたしか14、5歳ぐらいだったと思います。

天才少年少女達は、とてもそんなティーンエイジャーとは信じられないような老成した音楽性とテクニックで世間の注目を集めたものでした。そんな中でベジュン・メータの何が特別だったかというと、すでにこの歳にして人間の憂いと悲しみ、そして人の心の中にわだかまる深いものを見事に演奏に投影していた点だと思います。

とくに歌には歌詞があり、歌詞は器楽曲に較べると楽曲の意味するものに、言葉という具体性が附随しています。そこに多く語られているものは、愛と悲しみ、歓喜と絶望であり、それはつまるところ人間の抗うことのできない宿命のようなものを土台としています。

ベジュン・メータは歌唱力という点においても格別でしたが、それに加えて彼の天才を最も表しているのは、すさまじいばかりの表現力で、そこには他の追従を許さぬ圧倒的なものがありました。繊細かつ大胆、聴く者の心の中に手を突っ込まれて縦横無尽に引き回されるようでした。

ところがマロニエ君がベジュンを聴いたのはこの十代の頃のCD一枚きりで、その後は名前も耳にしなくなったので、とても気になっていました。

ロシアに、アリーナ・コルシュノヴァといったか…、闇夜に一条の蝋燭の火が灯るような暗い雰囲気を持ったピアノの天才少女がいて、彼女のデビューCDを聴いたときも、その鳥肌の立つような世界に圧倒されたものでした。

ショパンの嬰ハ短調のワルツなどは、マロニエ君はこれ以上の憂いと美しさに満ちた演奏を聴いたことはなく、いまだにこれを凌ぐ演奏に出会ったことはありません。
このとき彼女はたしか十代前半で、この先どんなふうに歳を重ねていくのやら、無事に大人になることができるのか想像ができず、まさに天才ならではの心の闇と悲劇性を一身に背負ったような少女でした。

案の定、その後、彼女の名前やCDを目にすることは一度としてありませんから、きっと何かが彼女の身の上に起こったのではないかと今でも思っています。

そしてベジュン・メータの場合も、ぱったりとその名を聞くことがなくなり、同様の危惧を感じていました。
ところが少し前にBSで放送されたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でタイトルの写真を見たとたんアッと思いました。主役のオルフェオはすっかり大人になったベジュンその人で、昔とほとんどかわらぬカウンター・テナーとなって見事な歌唱を聴かせました。

十代の頃の美質はまったく損なわれることなく、その存在感は何倍にもなったようで、まさに圧倒的。この古典の名作オペラにもかかわらず、まるで彼一人が際立ち、他は添え物のようでした。
彼が歌うと、そこには得体の知れないエネルギーがあふれ、あたりには一陣の風が巻き上がるようでした。
まさに感銘の再会で、ひさびさに深い満足に浸ることができました。