リピート

過日クラシック倶楽部で、ゲルハルト・オピッツとN響のメンバーによるシューベルトの室内楽演奏会をやっていました。

時間の関係からアルペジョーネ・ソナタ(第一楽章)と、ピアノ五重奏「ます」(第三楽章抜き)が採り上げられ、いずれも引きこまれるような魅力はないけれども、安心して聴くことのできる大人のプロの演奏である点が好ましく思いました。
本来ならテレビ収録されるぐらいの演奏家にとって、「安心して聴かせる」ことは当たり前とも思うのですが、実際には…。

とくに解釈やアーティキュレーションで奇を衒わず、まずは真っ当に曲が流れる演奏であるだけでホッとさせられ、それが実行できているだけでもポイントが上がります。

さて、アルペジョーネ・ソナタは今回はヴィオラとピアノでの演奏で、素晴らしい作品であることは疑いないところですが、第一楽章だけでもかなり長い曲で、提示部の終わりまで行くと、リピートでパッとまた振り出しに戻ってしまうのは正直云ってちょっとうんざりしてしまいます。「ます」も同様で、要するにリピートリピートで疲れてくる。
曲そのものは心底すばらしいと思っているのに、リピートはうんざり…というのはなぜだろうと思うことが少なくありません。

アルペジョーネはマロニエ君も下手ながら友人とやったことがありますが、練習は別にして、合わせるときはリピートなしでやっていました。弾いても聴いても、提示部の終わりまでやっと来たのに、また始めからというのは、体育の先生から「もう一週してこーい!」といわれているようです。

リピートのうんざりで他にも思い出すのは、たとえばベートーヴェンのクロイツェルの第一楽章などがマロニエ君の感性としてはこれに該当します。この場合、曲想の点からも提示部が進めば進むだけ激しい情念が増幅してきて、もはや前進あるのみという気分であるのに、くるりとまた第一主題冒頭へ引き返すのは、うんざりというより「あらら…」と気が抜けてしまうようで、この曲の切迫感というかテンションがガクンと落ちてしまう気がします。

ショパンのソナタでも3番の第一楽章はまだいいとして、2番の第一楽章提示部のリピートはいただけません。ここでも後戻りできないまでに疾走してきているのに、それを断ち切って、またはじめに戻るのはどうしても興ざめします。
ピアニストの中には、なんと序奏部分にまで引き返す人がいて、やはりこれもうんざりしてしまいます。なので、たまにこれをしないで一気に展開部へ突入していく人がいると、もうそれだけでよしよし!という気になってしまいます。

ところが同じベートーヴェンのヴァイオリンソナタでもスプリングになると、こちらはリピートがあったほうが収まりがいいし、ワルトシュタインや最後のソナタなどでは、逆になくてはならないものだと思います。
シューベルトも最後の3つのソナタなども、長大ですがこちらは必要な気がしますから、リピートとはなんとも不思議なものです。

そういえば思い出しましたが、ショパンの第2ソナタの第一楽章のリピートは、自筆譜にある筆跡を専門家が見ると、その書き方が微妙で、リピートではない可能性もあるのだそうで、だとするとそもそもショパンの意図したものではないということにもなるようです。

グールドのゴルトベルクなども、各変奏ごとにリピートしたりしなかったりということをやっているようで、ここは演奏者が随時判断ということが最良なのかもしれません。

要は先に行きたい気分の強いものと、そうではないものの違いなのかもしれず、音楽は聴く人の気持ちの自然の運びにあまり逆らわないことも大切ではないかと思います。