下味つきピアノ

古い録音などを聴いていると、つくづくピアノの音が今とは違うことを痛感させられます。
うわべの派手さを追い求めず、質実剛健でありながら、腹の底からピアノが力強くふくよかに鳴っていることがわかります。

その点では、現代人のピアノの音色に対する好みは、明るくブリリアントな音であることで、これがほとんど当然のような尺度になっているようです。

この点ばかりが強調される陰で、基音は痩せ細り、楽器としての器は萎んでしまっているのに、ムラのない甘ったるい音を出すピアノがもてはやされ、賞味期限を過ぎたら迷わず新しいのに買い換えるのが正しいといわんばかりです。
しかも、もともと賞味するに値するほどの音でもないのが笑止です。

この流れをつくったのはやはり利益優先の企業体質のようにも思いますし、高級ピアノに追いつけ追い越せとダッシュをかけてきた日本のメーカーにも責任の一端はあるのかもしれません。

今や覇者であるスタインウェイでさえ理想的なピアノ作りの道筋が怪しくなって久しく、この先さらにどうなっていくのかと思わずにはいられません。

個人的な印象ですが、今のピアノの大半は、いわばはじめら下味の付いた売出用の食材みたいで、しかもその味が本当に好ましいものであるかどうかも疑わしく、奏者の表現に対する意欲や情熱を大いにスポイルしているように思われます。

だいいち、あらかじめ下味の付いたピアノの音色なんて、どことなく不気味です。
それを「いい音」だと感じているうちはいいのでしょうが、いったんその不自然に気がついてしまうともうノーサンキューで、ここから後戻りはなかなかできません。

まるで、ピアノが揉み手をして擦り寄ってくるようで、「あなたはただキーを押すだけ。あとはこちらで上手くやっておきますよ。」とでもいわれているようです。

その点では、佳き時代のピアノはまったく奏者に媚びを売りませんが、そのかわりに楽器と共に音楽をする喜びやいろんなアイデアを与えてくれるようです。
むろん前もって砂糖をまぶしたような甘味もなければ、貼り付けた笑顔みたいな変な明るさもなく、すべては作品と演奏によって表現されるものという楽器としての本分を備えているということでしょう。

現在のピアノの「おもてなし」に慣れた人が古いピアノを弾くと、くだらない欠点とか愛想のない無骨さばかりを感じてしまい、いい面がすぐには理解出来ない可能性があります。しかし、そういうピアノでいろんな表現をして音楽が姿をあらわしたときの深い説得力というものは、現代のピアノとは比較にならないほど純粋で濃密なものがあります。

もう一度原点回帰して、ピアノ音はあくまでも実直な性格に留めおいて、あとは甘いも辛いも演奏によって表現されるべきものという基本に立ち帰ってほしいものです。

そもそもピアノメーカーなんて、経営が大変なほど大きくなること自体が間違っているのではないかと思います。むろん小さければやっていけるというものでもないでしょうけれど…。