再放送から

BSのクラシック倶楽部は、いつごろからか定かではありませんが、以前に較べると同じものの再放送がずいぶん多くなりました。
ものによっては3回ぐらい繰り返しやっているように感じます。

見逃したものや、あとになってもう一度見たいと思っている場合は、この再放送/再々放送によって大いに助けられる反面、できるだけいろいろなコンサートの様子を楽しみたい側からすれば、「あー、またこれか…」となるのも率直なところです。

それでも、録画を消してしまう前に、なぜかちょっと見てみようということも少なくありません。
つい先日も、女流として世界的に有名なピアニストとチェロとのデュオの再放送があって、これもすでに一度見てはいましたが、消去ボタンを押す前についまた見てしまいました。前回の印象がさらに強まり、小柄な人ということもあるのかもしれませんが、この人が得ている地位からみれば技巧的にも余裕がなく、しかも音らしい音がほとんど出ていないことにあらためてびっくり。

曲はベートーヴェンのチェロソナタ3番のような傑作ですが、まったく潤いも活気もないパサパサした演奏で、随所に散りばめられた聴き所とか、期待している和声進行などがまったく伝わらず、この演奏のどこに耳を傾けるのかポイントさえわかりません。坪庭の控え目な植木のように地味に小さな音で弾くことがさも精神的で正しいことのような気配であるのは、ある種の傲慢さのようでもあり、かなり欲求不満がつのりました。
驚くべきは、決して大きな音でもないのに、音にはいささかの潤いも色艶もなく、素人が弾いてももっと美しい音が出せそうなもんだと思いました。

このまま就寝してはすっきりしないので、口直しに、つづけて聴いたのはデュオ・アマルという若手の男性二人によるピアノデュオで(これも再放送)、シューベルトの4手のための幻想曲D940から始まりました。
セコンドが漕ぎ出す静かなヘ短調の伴奏に続いて、プリモの単音による第一主題が乗ってきますが、繊細に弾かれながらも、ピアノがきちんと鳴っていることに、のっけからまず胸のつかえがおりるようでした。
この喩えようもない悲しみの音楽に耳を委ねますが、タッチにはじゅうぶんな注意が払われて芯があり、肉がある。いかにも男性ピニストらしい力の余裕と音色の透明感があり、ああなんと美しいことかと、さっきまでとは気分が一変するのは大いに救われました。

それにしても、4手のための幻想曲という作品の素晴らしさには、あらためて感銘を覚えることになりました。自分なりにじゅうぶん聴き込んだつもりであっても、演奏によって、新たに作品の偉大さを認識させられるのは、それだけ優れた演奏であるということの証であるといえるでしょう。

もともとシューベルトの作品は構造感が見えやすいものではないけれど、晩年(といってもわずか31年の生涯ですが)になるほど、ますますそれはとらえにくく、ピアノソナタなどにもある種の冗長さがつきまといます。

確かな設計図とか、明確な着地点を定めた上で、そこに到達させるべく緻密にペンを走らせたというより、感興の命じるまま切々と音符がしたためられた印象です。

ふつう連弾というと、ソロよりも娯楽的であったりフレンドリーな要素の作品というイメージがありますが、少なくともこの4手のための幻想曲は、そういう既成の枠をはるか飛び越えてしまった、高い芸術性をもつ稀有な作品で、連弾というイメージからはかけ離れています。
よくよく考えてみれば、少なくともマロニエ君の知る連弾(1台4手)作品の中では、突出した傑作ではないかと思いました。