ラトルのマノン

今年、バーデンバーデンの復活祭音楽祭で上演されたプッチーニの『マノン・レスコー』の録画を見てみましたが、まだ第二幕の途中までで、最後まで見続けられるかどうかは甚だ疑問です。

というのも、ここに展開される舞台と演奏は、およそマロニエ君の考えるイタリアオペラのそれとは、本質的なところでの齟齬を感じて消化不良ばかり感じるからです。

オーケストラはラトル指揮のベルリンフィルで、さすがにその名に恥じないハイクオリティな演奏だということは随所に感じられますが、そのことと、その作品に適った演奏というのはまた別の話です。

このオーケストラがオペラに慣れていないのか、その他の理由なのか、やたらきっちり交響的に整然と鳴らしていくばかりで、オペラの勘どころや息づかいというものがまるで感じられませんでした。

主役のデグリューはマッシモ・ジョルダーノというイタリア人ですが、ただ一直線に絶唱するだけで、この作品の主役であるデグリューという情熱的な青年の存在感は稀薄なものでした。スピント・テノールという力強い方向の歌い手ではあるようですが、柔軟性や演技力に乏しく、いつも客席に向かって棒立ちでフォルテで吠えまくるのみという印象。
タイトルロールのエヴァ・マリア・ウェストブレークもそうですが、ふたりともワーグナーの楽劇のほうが、よほどお似合いでは?と思いました。

全体としても大味で細かな配慮が感じられないものでしたが、唯一の救いは、それなりの舞台装置があったことでしょうか。近年は装置も何も簡略化され、登場人物も現代的な衣装であったり、どうかするとほとんど普段着のようなものを着てモーツァルトやヴェルディなどの大作を上演するのが流行で、さもモダンな主張があるようなフリをしつつ、実際は舞台のコストダウンもここまでやるかというもので、とてもオペラを見る醍醐味とは程遠いものが多すぎます。

マノンはプッチーニのオペラの中でも初期に書かれた作品ですが、最も旋律的であるのが特徴でしょう。
そのめくるめく劇的旋律の妙と物語進行が、これほど噛み合わず、舞台上の出来事と音楽が混ざり合わない演奏・演出も珍しく、とりわけ全体に感じられる無骨さは如何ともし難いものがありました。
いかにも融通のきかないドイツ的な調子で、根底にしなやかさや遊び心がありません。イタリアオペラとはまったく相容れない体質があまりにも前に出て、ひどく無骨で野暮ったいものにしか感じられませんでした。

そもそもイタリアオペラはドイツ人の資質とは対極のものかもしれません。
そういう意味では、ある種おもしろいものを見たとも言えそうですが、続きはもう結構という感じです。

マノンレスコーで忘れがたいのは、若くして世を去ったジョゼッペ・シノーポリがこのオペラに鮮烈な解釈で新たな命を吹き込んだ快演で、個人的にいまだにこれを凌ぐものは出ていないと思います。

CDではマノンをミレッラ・フレーニ、映像ではキリ・テ・カナワ、デグリューはいずれもプラシド・ドミンゴという最高の顔ぶれでしたが、いま聴いても圧巻で、やはり彼らは大したものだとしみじみ思います。