携帯のことをもう少し。
携帯(=ケータイ)の普及は、実は「普及」というおだやかな言葉は似つかわしくない、異常繁殖とか侵略と云いたいぐらいの、とてつもない勢いで世界中が呑み込まれました。
まるで、穏やかだった池や湖に、獰猛な外来種を放り込まれることでそれまでの環境が激変するように、突如、ケータイという新種によって従来の社会の多くのものが食い尽くされ、絶滅させられているという印象さえ抱いています。
まさに生態系が変わったというべきか、これにより人の精神まで変化をきたし、一部は破壊もしくは死滅させられたというほうが適当なのかもしれません。
ケータイやネットの恐ろしいところは、人が誰でも自分の幸福を望んだり、お金が欲しいのと同じように、その圧倒的な機能や利便性を武器に、否応なく社会に侵食してきたという点です。すでに世の中がケータイ/ネットを前提とした構造に様変わりしてしまった現在、よほどの変人でもない限り、これを拒絶することは不可能です。
ひと時代前のことですが、嫌がる高齢者に家族がケータイを持たせるようになりましたが、これなどは「持っていてもらわないと周りが迷惑だ」というレベルにまで到達したことのあらわれでした。
ここまで徹底してケータイが社会を侵食していったその苛烈さが、まさに獰猛で手に負えない外来種同様だとマロニエ君には思えるのです。もはや身を守る術はないも同然と見るべきで、ここまで社会環境が変化した中で、我一人ケータイを持たないと踏ん張ってみたところで、ほとんど意味は見出せません。
そうまでして便利になった世の中のはずですが、話はそう簡単ではないのも皮肉です。便利になるということは、その代わりの不便がちゃんと身代わりのように発生していることを、近ごろ痛感させられて仕方がありません。
例えばつくづく思うのは、昔のように気軽に人に電話をするということが甚だ難しくなっているのは、便利が生んだ不便そのもので、いちいちもう…面倒臭いといったらありません。
とりわけ30代以下の世代では、電話をしてもまずすぐに出ることはない。
電話に出るタイミングとかけてきた相手を向こうで「選んで」いることはあきらかで、こういう微妙な失礼はいまや日常茶飯です。
おそらくは自分が必要と思った相手にだけ、自分の都合のいいタイミングにかぎって出るか、あるいはコールバックするわけです。このため事前に電話する旨をメールでお伺いをたてるなど、実際に会話に漕ぎ着けるまでには、毎度々々そういうプロセスや手順を踏まなくてはならないような空気があるのは、面倒臭いのみならず、気分的にも鬱陶しい。
仕事関連の電話でさえ、スムーズにサッと連絡が取れることは当たり前ではなく、多くがまずは出ない、メールをしても返事に時間を要することが多く、じかに話ができるのは、早くても最初のアクションから1時間後ぐらいであったり、ひどいときは数日も後になってようやく短い事務的な連絡が来たりで、時間がかかって仕方ありません。これじゃ世の中、流れもテンポも停滞するのは当たり前です。
現にマロニエ君は人に連絡を取ることが、以前よりはるかに面倒な手続きが増えたせいで、昔にくらべて遥かに煩わしく億劫になりました。
驚くべきは、例えば生徒を募集する音楽教室なども、ホームページはあっても電話番号は書かれていないケースが多く、中には「メールを送っても返信がない場合は、2〜3日してもう一度メールしてください。」とあり、やる気があるのか?と思ってしまいます。
言葉では音楽教室とはいってみても、要は人様からお金をいただく商売なんですから、こんな身勝手なスタンスで繁盛するわけありません。
人と人との関係は生き物で、それなりのテンポと熱気と感性なしでは、良好な関係や快適な時間を送ることはもうできないだろうと思います。現に若い世代は誤解を恐れずにいうなら、話をしていても、頭の回転があまりよろしくないと感じることは少なくありません。
自分より、遥かに若くて体力もあり、しなやかな脳細胞ももっているはずの若者が、何を言っても聞いても、飲み込みが悪く、理解できないことが多いと感じます。やっても老人のようにトロいスピードでしか対応できない様は、ほんとうに奇妙です。
そんな連中が、ひとたびスマホの操作となると、目にも止まらぬスピードで操作する姿を見るにつけ、ほとんどグロテスクな感じを受けてしまうこともあるのです。