水の音

マロニエ君の自宅の裏には、マンションが背中を向けてそびえ立ち、我が家とは土地の高低差があるので、マンションの土台部分は一面のコンクリートの壁状になっています。

これが幸いし、さらに両隣のお宅も住居部分がそれぞれ離れていため、ピアノの音でご近所に気兼ねすることがそれほどでもなく、控え目な音であれば深夜までピアノが弾ける環境であるのは恵まれていると思うところです。

そのマンションから、下水か何かよくわかりませんが、我が家との境界線付近にある排水口らしきところへかなりの勢いで水が流れ落ちてきて、その水の音は、隣人としては改善を願い出てもおかしくないほどの音量に達しており、それがどうかすると24時間連日続きます。

たまに我が家に訪れた人は、その絶え間なく流れ落ちる水の音に驚き、何事か!?と感じる向きもあるようです。

ところが我が家では、誰もそのことでマンションへ苦情を言ったことがありません。それは水の音というものが、うるさいと思えば確かにそうだけれど、どこか嫌ではない性質の音であるからで、勝手に自宅の裏に小川が流れているような風情を感じたりしています。

どちらかというとマロニエ君は不眠症ぎみで、ちょっとした事や物音でも寝付くことができずに苦労するほうなのですが、この川のせせらぎのような音だけは、たえず耳には届いてくるものの、なぜか心底イヤだと感じたことがありません。

これがもし別の種類の音だったらば、たとえ音量が半分でもとても我慢できるものではないでしょう。
それだけ、音にもいろいろあるというわけで、個人差はあるとしても、おおむね人は自然の発する音には寛大で、ときにはそこに心地よささえ覚えるものだということを感じないわけにはいきません。

その証拠に、春秋の季候のよいころになると、ごくたまにではあるけれども、そのマンションの住人が窓を開け放ってパーティみたいなことをやっているのか、ずいぶん楽しげにわいわいやっていることがあるのですが、こちらはそれほどの音量でもないけれど、たえず耳について気になって仕方がありません。

それに較べると、水の流れる音は音楽の邪魔にさえなりません。
人が木の感触に説明不要の感触を覚えるように、ちっともイヤではないばかりか、例えばベートーヴェンのシンフォニーやソナタの緩徐楽章のその向こうで水の音がするのは、その楽想に合っているかどうかは別として悪くはない感触です。

こういうことを考えてみると、この先、どんなにめざましい技術が生まれてピアノの響板などに流用できたとしても、それでは人の本能とか潜在的な部分を慰めることはできないだろうと、これだけは確信をもって思います。