プロの矜持

今年、縁あって知るところとなった自動車のメンテナンスショップがあります。
ここのご主人がたいへん立派というか、見上げた心がけの持ち主で、すっかり感心してしまいました。

それは故障の修理にあたって、いろいろな可能性や方策が講じられ、「それで結果がでたら、これこれの料金で…」というスタンスを取ることです。

故障しないことが当たり前の日本車にお乗りの方はご存じないかもしれませんが、輸入車に乗ると、ほかに代え難い魅力がある反面、信じられないような故障やトラブルに悩まされることになります。とくに保証期間が切れると、以降は何があっても費用は自腹を切らなくてはなりません。

まず大変なのはトラブルの原因究明ですが、これがやっかいです。
ライトが切れたとか、タイヤがパンクしたというのなら話は早いのですが、現実のトラブルはとてもそんなものではありません。機械の奥深い部分に、考えられないような原因があることは珍しくなく、それを正確に突き止めることが至難の技です。

さらに現代の車は大小様々なコンピュータまみれで、これが悪さをすると、なにが原因かを特定するのは困難を極め、そのためのテスターなども実は限界があって決して万能ではありません。

突き止められなければどうなるかというと、問題の可能性がありそうなパーツを交換して、あっちがダメならこっち、こっちがダメならそっちといった具合で、オーナーは車が直って欲しい一心でその成り行きを見守ることしかできまません。

実際、部品を換えてみないとわからないということも確かにあることはあるのですが、多くはメカニックが独断的な見立てをして部品を発注、さてそれを交換してみたものの一向に改善されない…といったことがよくあるのです。
これはつまり、結果からすれば交換の必要がなかったパーツだったということになり、じゃあその部品代や交換工賃はどうなるのかというと、これは車のオーナーの負担になります。

常識で考えれば、「プロの見立てが悪いのだからそっちの責任」ということになって然るべきですが、実際はなかなかそうもいかないのです。
修理する側にしてみれば、直すための努力をやっている過程で発生したやむを得ない手順のひとつというわけで、それを容認できないようなら「うちじゃ診きれません」というようなことになるわけです。

しかも、輸入車の場合は診てくれる工場も多くはなく、見放されては困るという乗り手側の事情もあって、理の通らない請求にもじぶしぶ応じることになるわけです。

ところが、このショップでは工賃もリーズナブルな上に、結果に対して責任を持つ姿勢であることは、本来なら筋論として当たり前のことですが、それがほとんど実行されない現状に慣らされているぶん、マロニエ君は大いに感激してしまいました。
今の世の中、当たり前が当たり前として機能し、実行されることはそうはないのです。

プロというものは、基本として結果に責任をもち、そこに報酬を得ることのできる専門職のことであって、結果に至るまでの未熟さや紆余曲折の過程で発生した部品代や手間賃をいちいち請求するのは、ほんらいプロとして恥ずべき事だと思います。

ピアノの世界でも、せっかくいい仕事をされるのに、作業内容や料金に対して一貫したポリシーをもてない人がいたりすると、それだけでしらけてしまいます。
はじめに聞いたことと、いざ請求するときの金額や内容が微妙に違っていたりするのも、こちらは敢えて追求はしないけれども、内心ではむしろ鮮明にきっちりわかっているだけに、そんなとき見たくないものを見せられるような気がします。

小さなことは実は決して小さくはないということでしょうか。