青柳いづみこさんの著作『アンリ・バルダ』は、読者レビューによれば評判はそれほど芳しいものではなく、むしろ否定的な意見が多く見られたようでした。
普通ならこういう書き込みを見ると購入意欲を削がれるものですが、アンリ・バルダというピアニストは一度テレビで視たきりで、よく知らなかったこともあるし、そもそも青柳女史が一冊の本として多大な時間と労力を賭して書き上げるからには、それなりの意味と価値があったのだろうと思われ、敢えて購入に踏み切りました。
果たしてマロニエ君にとっては、否定的どころか、この本は青柳氏の数々の著作の中でも出色であったように思われ、始めから最後まで、概ねおもしろく読むことができました。
バルダという気が弱いのに我が儘な、傲慢なのに優しげな、いかにもヨーロッパにいそうな昔気質の音楽家の姿がそこにあり、傷つきやすい繊細な心象を抱きつつ、それを守ろうともせず矛盾の渦の中に自分をつき落とし、後悔を繰り返しながら、それでも本能のようにピアノを弾いている、はや初老のフランス人ピアニストの半生でした。
本を一冊読み終えてみると、無性に演奏が聴きたくなるものですが、手許には一枚もCDがありません。オペラ座バレエのジェローム・ロビンスの舞台では長年ショパンを弾いていた由ですが、以前マロニエ君がこれを見たときは別の女性ピアニストになっていて、そこでのバルダも聴いてみたかったなどあれこれと興味ばかりが沸き立ちました。
本によると、ときどき来日してはコンサートやレッスンをやっているようではあるし、そのうちまたクラシック倶楽部でもやるかもと思っていたら、その念願が通じたのか、それから早々のタイミングで「アンリ・バルダ・ピアノリサイタル」が放映されたのには却ってこちらのほうが驚きました。
2012年の浜離宮でのリサイタルで、ラヴェルの高雅で感傷的なワルツ、ソナチネ、ショパンのソナタ第3番というものでしたが、不機嫌そうにステージに現れたバルダは一礼をするとサッと椅子に座り、一呼吸する間もなく演奏を始め、見ているほうが大丈夫か?と不安になるほどです。
本を読んでいたこともあると思いますが、次第にわかってきたのは、このバルダのステージ上の素っ気ない態度は、ひどく緊張している自分との戦いのようにも思われました。
バルダのピアノはタッチの多様さというものが少なめで、悪く言うとタイプライターのように容赦なくキーを叩いて演奏をひたすら前進させ、その疾走するスピードにときどきバルダ自身さえもが煽られているようなときもあるようです。
あまりに出たとこ勝負的な演奏なので、途中で本人もマズいと思っているのかもしれないけれど、笛が鳴って飛び込んだら、ともかくゴールを目指して泳ぎ続けなくてはいけないスイマーのように、遮二無二、終わりに向かって進んでいくといった感じでもあります。
よく聴いていると情感はあるのだけれど、それを正面から出すのが彼のセンスに合わないのか、むしろドライぶって仮面を被っているようでもありました。
ラヴェルは彼の十八番のひとつのようですが、現代の演奏に慣れてしまった耳で聴くと、すぐにその良さは伝わりません。むしろデリカシーのない、思慮を欠いた、荒っぽい演奏のように聞こえてしまうでしょうし、事実マロニエ君もはじめのうちはそんな印象で聴いていましたが、だんだんにこの人が紡ぎ出す音楽の美しさと、作品そのものの美しさが和解してくるようです。
音楽が奏者の感性を通して演奏となり、それが音として実在してくるという一連の流れが、とても芸術的だと感じるようになりました。
バルダの主観によって捉えた音楽を、ありのまま出してみせるという、まるで画家の自由奔放な筆使いを見るようで、他のピアニストでは決して味わうことのできない面白さを満喫することができました。
もちろん欠点はたくさんあるし、「それはあんまりでしょう!」といいたくなるような部分も随所にありました。でも例えばショパンの第三楽章の悲しみの中に沈殿する透明な美しさや、それを隠そうとする恥じらいなど、バルダの心中のさまざまなうごめきが伝わってくるようで、もっとこの人の演奏に付き合ってみたいような気になるのは、まったく不思議なピアニストだと思いました。
アンコールではショパンのノクターンが弾かれましたが、これがまたエッ!?!というような賛同しかねるもので、最後の最後まで苦笑させられました。
でも、マロニエ君はいつも思っていることですが、物事の良し悪しというのはその残像としてとどまるものに証明されると思います。その点で言うとバルダは、結局は非常に後味の良い、魅力あるピアニストであったことは間違いないようです。
甚だ辛辣で偽悪趣味のパリジャンもなかなかカッコイイものです。