ピアノの調律の極意や判断基準がどこにあるのかは、マロニエ君もいまだにわかりません。
調律する際に出す音、もしくはタッチ如何によっても大きく違ってくるようで、我が家に来られる技術者のおひとりは、終始繊細なピアニッシモで調律をされ、それはそれで長い話になるほどの理由と根拠があってそうされているわけです。
しかし、おそらくはフォルテで行う調律にもある一定の理由があり、むやみに全否定してしまっていいものか…というのがマロニエ君の偽らざる印象です。
ウワサの対象になった方の調律によるコンサートは何度も聴いていますが、ピアノの音に感銘を受けたことも幾度かあったほか、まったく同じピアノ/ピアニストで別の調律師がおこなった調律では、明らかに音が平凡で輝きも迫りもなく、それに気付いた人も何人かおられたほどでした。
やはりこれは誰にでもできることではないと思います。
むろん好みはあって当然で、マロニエ君も素晴らしいとされるものにも自分の好みでないものはたくさんあります。しかしひとりの技術者としての在り方を根本から否定するのであれば、それがどこまで正鵠を得ているのかと、ここは強く疑問に思うのです。
…しかし、しょせんウワサや悪評というのは、そもそもが好い加減で、そのための検証とか真偽の確認なんてされることのほうが少なく、大抵は無責任で残酷なものだと相場は決まっています。することなすことすべてが否定や非難でおもしろおかしく語られ、人から人へと広まっていくのは、なんだかとてもやりきれないものを感じてしまいます。
それに拍車をかけるのは同業者による批判でしょう。
職人とか技術者というのは伝統的に閉鎖的かつ自己肯定型の世界です。それだけ他者や他の流儀を受け容れない本能みたいなものがあるのかもしれません。(中にはその体質を逆手にとって「自分は人の技術も大いに認めていますよ」という謙虚さを妙にアピールする人もいたりします。)
いずれにしろ、専門家は専門家であるが故に、いかにも説得力ありげな自説を展開でき、さらには門外漢にその判定は甚だ難しいために、反論もできずに一方的にお説を承ることになります。
おしなべてピアノ技術者は相手がなるほどと思ってしまうようなトークが不思議なほど上手いので、大抵の人は意のままにコントロールされてしまうでしょう。ここで言う「大抵の人」とは、技術者ではないほとんどの人達で、むろんピアニストや教師の類もこれに含まれます。
このような同業者のコメントによって、ウワサは単なるウワサではなくなり、いわば専門家によって裏書きされたものとなって、さらにエネルギーを増していきます。
この先生の場合も、ウワサの予備知識があったところへ、名人らしき出入りの調律師さんがこの件ではずいぶんいろいろなコメントをして帰ったようで、それが決定的となり、件の調律師さんの悪評はいよいよ不動のものとなってしまったようです。