理性の采配

Eテレのクラシック音楽館では先月おこなわれたNHK音楽祭の模様がはやくも放送され、ユリアンナ・アブデーエワのピアノでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。
指揮はマルティン・ジークハルト。

隅々までぬかりなく堅固な意志の行き届いた、お見事と云わせる演奏でした。
音の粒立ちが素晴らしく、とくに1/3楽章の速いパッセージなどでは音符のすべてが明晰かつ凛としており、アブデーエワの持つ演奏技術の素晴らしさをまざまざと見せつけられるようでした。

しかし、音楽の根底にあるものが歌であり踊りであるということを考えると、アブデーエワの演奏はいささかそれとは異なる目標が定められているのでは…とも感じられます。

あまり多くはない歌いまわしやルバートも、自然発生的というより台本で予定されている観があり、モーツァルトの音楽には少々そぐわない気がしたことも事実。基本的にはこの人の演奏は、遊びや冒険を排した理性の采配そのものと、随所に覗くピアニスティックな要素で聴かせる人だと思いました。

それなりの解釈の跡も見受けられますが、むしろ傑出した指の技術と、それを決してひけらかすためには用いないという自己主張が前に出ていて、「できるけどしない」というかたちでの力の誇示が、却って大人ぶっているようで鼻につく感じがあります。
それでも、これぐらい揺るぎなくきっちり弾いてもらえるなら、とりあえず聴くほうは演奏技巧の見事さに感心するのは確かです。

全体を振り返って感じるのは、この人に著しく欠けているのは音楽に不可欠の即興性や燃焼性、もっと単純にいえば率直さだろうと思います。
いかなることがあろうとも情に動かされない、不屈の精神の持ち主のようで、音楽家でが音楽的感情に動かされないということが、本来正しいのかどうか…。

ともかく、その日その場で反応していく「霊感の余地」を残さないのは、このピアニスト最大の問題点のような気がしますし、わけてもモーツァルトのような一音々々に神経を通わせて、センシティブな呼応を重ねていくような音楽で、事前にカッチリ錬られた作り置きみたいなパフォーマンスを完結させることはどうも感覚的にそぐわないものを感じます。

まあ、ひとことでいうなら、いかなる場合も決して波長がノッてこないのは聴く側の期待する高揚感をいちいち外されていくようで、なぜそんなにお堅く処理してしまうのかわかりません。

単に上手いだけでない、器の大きなピアニストを聴いたという印象には確かなものがある反面、いい音楽を聴いたという満足とはちょっと食い違った印象が手足を捉えて離してくれない…それがアブデーエワのピアノだという気がしました。

アンコールでショパンのマズルカを弾きましたが、こんな場面でちょっとした小品を弾くのにも、絶えず強い抑制がかかっているようですっきりできません。ひどく窮屈な感じがあり、少なくとも演奏によって作品が解き放たれる気配がないのはストレスを感じます。

余談ながら、黒のパンツスーツ姿がトレードマークのアブデーエワですが、それがさらに進化したのか、黒の燕尾服のようなものにヒールのある靴を履いた姿はまさに男装の麗人、川島芳子かジョルジュ・サンドかという出で立ちでした。
実はこれまで、服装は音楽とはとりあえず関係ないと思ってきましたが、彼女の優しげな眼差しはまるで少年時代のキーシンを思い起こさせるようでとても可愛らしいのに、そんなビジュアルの逆を行かんばかりのガチガチの服装は、その演奏の在り方にも通じるのではないかと、さすがの今回は思わずにはいられませんでした。