フーガの技法

まったく個人的な見解ですが、バッハのありのままの魅力というか、多くの作品を気負わず素直な気分で楽しむことを阻害してきたのは、ひと時代前に蔓延していた、大上段に奉られた、いかめしいバッハ像にあったような気がします。
過度の宗教性、厳格なスタンス、楽しむものとは一線を画する、聖典のような音楽といった趣で、これは時代そのものが作ったバッハのかたちであったように思います。

音楽の純粋な愉悦とは対極の位置に押しやられてしまったバッハ、荘重荘厳でなくてはならないバッハ、むやみに神聖化しすぎたバッハ像は、却ってこの偉大な大伽藍のごとき作曲家を人々から遠ざけてしまった一面があったのかもしれません。

これを打破した象徴的ひとりがG.Gであり、多くの音楽家がなんらかのかたちでそれに続いたことは否定できないでしょう。バッハ演奏にあたって、ポリフォニーの明晰な弾き分けは当然としても、随所に散りばめられた多くの歌、幾何学のモダンと斬新、舞曲としての遺伝子を無視した即興性に欠ける、西洋のお経のようなバッハは、マロニエ君はあまり聴きたくありません。

だからといって、ただ定見なく楽しく自由に演奏すればいいというものではなく、そこには切っても切れない宗教との絡みがあることは厳然たる事実でしょう。ただ、宗教とは人間全般の悲喜こもごもの生から死までの全般を引き受けるものであって、楽しみの要素のないことが宗教的敬虔さというふうには考えたくないのです。

ポリフォニーは音による緻密な編み物であり、その頂点に位置するのがバッハであることは異論の余地はありません。そしてその絵柄やモティーフは宗教的なものが多いとしても、それを教会の空間にばかり浸し続けるのは、この孤高の芸術を却って矮小化する行為のようにも感じてしまいます。

とくに晩年の傑作であるフーガの技法は、演奏する楽器の指定さえもないという、時空にひょいと放り投げられた崇高で謎めいた音楽のひとつでしょう。未完であることさえ、バッハの音楽が永久不滅であることをあらわしているかに思えます。
これはソロピアノによる演奏もあって、多くはないものの、いくつかのCDも出ています。

残念なことにG.Gはフーガの技法では前半をオルガンで弾いたり、ピアノで部分的な映像があったりするものの、ゴルトベルクのような決定的な録音は残していませんし、ニコラーエワのものももうひとつ決め手がない。
近ごろでは、幻のピアニストのように珍重されているソコロフのCDにもフーガの技法がありますし、コリオロフにもいかにも彼らしい名演があります。若手ではリフシッツもこれに挑んでいます。

ソコロフとコリオロフは個性は違えども、共にロシア出身のピアニストですが、その個性は対照的です。自己表出を極力押さえ、作品へのいわば滅私奉公を貫くことで、書かれた音符を生きた音楽に変換することの伝道者のようなコロリオフ。同じようなスタイルに見せながら、「音楽に忠実」を貫いている自分をいささか見せつけるふしのあるソコロフ。
ソコロフのサンタクロース体型に対して、コロリオフの痩身長躯も対照的。

共に驚異的なテクニックの持ち主ですが、ソコロフはリヒテルを彷彿とさせる巨人的な大きさで聴く者を制圧しますが、コリオロフはより緻密で論理的陶冶を旨としながら威厳があり、まろやかなのに張りのある音と細部までゆるがせにしない隙の無さで聴く者をしずかに圧倒します。

マロニエ君が本能的に聴きたくなるのはコリオロフとエマールです。

その理由をひとことでいうのは難しいですが、この2つはどうしても外せないもので、どちらも聴いていると「これが一番!」と思わせられてしまいます。
エマールの前衛と隣り合わせの時代を超越したバッハ、コロリオフの滑らかで緩急自在、優れた考証と最高度のバランスで聴かせるバッハ、どちらも捨てがたい魅力に溢れていて、このふたつがあれば今は大いに満足です。