見えていない自分

人の言動の中には、あくまでもさりげなさを装いつつ、なんでそんなに自分を上に見せようとするのかと感じることがあるものです。

ある病院に行ったときのこと、終って駐車場に向かっていると、偶然向こうからそこの先生の奥さんとばったり会いました。
この奥さんとはべつに知り合いというわけではなく、ときどき受付などにもすわっておられるので、しだいに顔見知りになったというだけの間柄です。

ところがこの方、なぜかマロニエ君の自宅の場所などもご存じらしく、「あのあたりは…」というような話をしばしばされるのには以前から少し違和感がありました。

病院に行くには健康保険証などを提示するので、そこから個人の住所なども知るところとなるわけですが、それを情報源として患者への雑談のネタにしていいかというと…それはちょっと違うような気がします。

さらに驚いたことには、マロニエ君の知るお若い演奏家兼先生をその方も何かの繋がりでご存じだったようで、その人物のことを「○○クン」と何度も繰り返し口にされるのには、いささか驚きました。

若いといっても相手は学生ではありません。
コンサートで演奏を重ね、先生として教室の長としてやっているからには、それなりの呼び方があるはずですが、あえてそう呼ぶことで自分の優位性を作りだし、そこを相手に印象づけるかのような心底が見えてしまいます。
百歩譲って純粋に親しみをこめてだとしても、相手(マロニエ君)は身内ではないのですから、表向きは「さん」か「先生」と呼ぶのが見識というものですが、この場合は「くん」である必要があったのかもしれません。

そもそも、この「クン呼ばわり」というのはテレビなどでも見かける、発言者の浅薄な自己宣伝手段としてしばしば用いられる印象があります。
社会的に話題の人であるとか、スポーツでめざましい結果を上げて注目を浴びているようなスター級の選手などを語る際に、あくまで自分にとっては対等の友人、家族ぐるみの付き合いをしている、もしくは目下の若者にすぎないよ…といわんばかりに、むやみに親しげな口調で不自然なコメントすることは少なくありません。

その相手を、わたしは「くん」で呼ぶだけの資格があるんだという、たったそれっぽっちのことで、自分の立ち位置を高いところへ引き上げようという、あまり上等とは云えない狙いが透けてみえるのです。
これを言ってサマになるのは、直接指導に携わった文字通りの先生や恩師だけでしょう。

マロニエ君はこの手の人を見るたびに、なんとも教養のない、世俗的な神経の立った、ハッタリ屋のように思えて仕方がありません。
ほとんどの場合、「さん」で呼ぶほうがどれだけ自然かわからないのに、それでも意図してまでクンとかチャンといってしまうのは大抵自己アピールで、ひどく物欲しそうな小さな人物に見えてしまいます。

政界にも、かつての石原慎太郎氏や、引退した渡辺恒三氏などは、相手が総理であれ大臣であれ、だれかれ構わず○○クン○○ちゃんとぬかりなくいっていましたが、今はさすがにそんな手合いもいなくなりましたね。「ぬかりなく」というのは、クン呼ばわりする相手がエライほど、そこには意味と快感があったはずだからです。

本人は至ってさりげない発言のつもりのようで、だから相手は感服しているという読みなのでしょうが、その考えは甘いというものです。聞いている側は、そこがいちいちわざとらしく、よけい耳障りに響くのですが…。