無個性の心得

TVニュースなどを見ていると、現代人は一億総役者か総タレントではないか?と感じることが少なくありません。

政治・経済・事件・事故などあらゆる場合に応じて、一般人がふいにカメラとマイクを向けられても、大半の人が、概ね似た感じの、きわめて無個性なありきたりな内容のコメントをするのは何なのかと思います。

しかも、おおよその口調や、語尾に「かな…」「みたいな…」をつけて、自分の意見としてきっちり結ばないところにも、大きな特徴があるようです。

まるでマイクを向ける側が、こういう答えを欲しがっているというのを察しているのか、それに添って答えているようにも感じられます。みなさん申し合わせたように何かを心得ておられて、まるで大雑把な台本があるかのようです。

それが練習の必要もないほど、一般的な意識として浸透しているのだとしたら、これは考えてみたらすごいことだと思います。

もしマロニエ君が同じようなシチュエーションに遭遇したら、まず間違いなく逃走してしまうでしょうけれど、万が一にもなにか答えるとしたら、とてもあんなふうな言い回しはできないと思うばかり。

どんなにつまらぬ意見であっても、話すからには自分のオリジナルの考えを述べるべきで、多くの人がこう考えるであろうというあたりを自分の考えとして滔々としゃべるなんて芸当は、そもそもマロニエ君にはできもしませんが、それじゃ何の意味もないと思います。

さらに戦慄するのは、そんな言い回しや思考回路が子供世代にまで波及していて、小学生ぐらいのコメントを聞いていても、そのしゃべり方・内容・ちょっとした間の取り方や調子まで、今どきのオトナのそれのようで思わず背中に寒いものが走ります。

自分の意見というものは、もっと素朴で正直で自由があっていいのではと思います。
しかるに多くの人達は、正直どころか、できるだけ一般的な感性から逸れないよう発言にも妙な折り合いをつけるよう努めているようで、もしかすると自分が一般的な意見の代弁者たることを目指しているのかとも思います。

すべてはご時世かとも思いますが、ひとつだけそれは違う!と声を大にして言いたいことがあります。
時あたかも衆院選を控えている時期で、若い世代の投票率がいよいよ低いことが問題視されていますが、若い人にインタビューすると恥じる様子もなく投票には「行かなーい」「行かないですね」とあっさり言い放ちます。
そこまでならまだしものこと、いかにもさめたような調子で「誰がなっても同じだから」として、だれもかれもがこれを選挙に行かない理由としています。

しかし、まさかそんなことがあるでしょうか。
たしかに55年体制まっただ中における慢心した派閥政治の時代ならまだいくらかわかりますが、現在の自公政権と先の民主党政権は誰が見てもまったく違うし、安倍さんと菅さん、どちらが総理でも同じだと本気で思っているのでしょうか?
何をいいと思うかは各人の判断するところですが、誰がやっても「同じではない」ことだけはハッキリと言いたいわけです。その違いはウインドウズとマックどころではないですよ。

投票に行かないことは、これはこれでひとつの意思表示かもしれませんが、己の無知を恥じぬままスタイルとして蔓延するのはきわめて憂うべきことだと思います。