演奏姿勢と音楽

いつだったかNHK日曜夜のクラシック音楽館で、我が地元である九州交響楽団の演奏会の様子が採り上げられ、小泉和裕氏の指揮で演奏機会の少ないブルックナーの交響曲第1番のほか、前半にはアンドリュー・フォン・ オーエンをソリストに迎えてシューマンのピアノ協奏曲が演奏されました。

会場はアクロス福岡シンフォニーホールで、見慣れた会場がテレビカメラを通して見ると、実際より立派なところのように見えることに驚きました。映像というのは不思議で、立派なものがしょぼくれて見えることがあるかと思えば、このようにそれほどでもないものがやけに立派に映し出されたりするようです。

九州交響楽団は福岡市に拠点を置く九州でもっとも歴史あるオーケストラですが、なかなかコメントする気にはなれないというのが正直なところ。

ピアノのアンドリュー・フォン・ オーエンは、少なくともマロニエ君にとっては特別な個性や魅力をもったピアニストとは言い難く、かろうじて回る指をもっていることからなんらかのチャンスを得てピアニストになってしまったのか、どちらかというとプロ級の腕をもったアマチュアといったら悪いけれども…そんな印象です。

最近は女性の演奏家の中には明らかにビジュアル系で売っている人が少なくありませんが、このオーエンも失礼ながらそちら系というか、ピアノの弾けるイケメンでステージに立っている人という気がしなくもありません。

彼を見ていて、今回はあるひとつのことに気がつきました。
いい演奏というものは、そのパフォーマンス中の姿勢や身体の動きにも現れるということです。
演奏姿勢の美しい人は演奏それ自体も無理がなく、音もリズムものびのびしていますが、身体の動きのおかしな人は、それが演奏になんらかの影響が現れているといえるようです。

極端に低い椅子で演奏したG.G(グレン・グールド)などは、その点で例外ともいえそうですが、彼の腕から指先の動きはきわめてまともで、とりわけ手首から先の無駄のない動きに至っては見ているだけでも惚れ惚れするほど美しいことこの上ありません。

オーエンの上体は意味不明な動きを繰りかえし、それが音楽的な必然とも思われず、見ていて気にかかります。左手など、なにかというとシロウトのようにだらしなく手首を下げたりと、いわゆるプロとしての修行をきちんと積んだ人なのか疑わしくなります。
音楽的にも線が細くて一貫性に乏しいのは、この人がこれといった根幹を成していないためではないかとも思えました。

そういえば、朝の番組で放送された日本音楽コンクールのピアノ部門でも、上位4名が抜粋で紹介されましたが、演奏にあまり好感のもてない人は、やはり姿勢や動きが不自然で、気合いだけでピアノをねじ伏せるように弾いているようでした。
ひとりだけまあまあと思える女性がいましたが、その人はピアノと格闘せず、音楽の波に乗った演奏ができていたと思いましたが、やはり姿勢もとてもきれいなことが印象的でした。

ピアノに限りませんが、楽器や機械を操作する、あるいはなにかの動作をするというときに、その姿が美しいのは、単にみてくれが良いというだけではなく、そこには機能美としての裏付けがあるからだと思います。
ゴルフのスイングひとつ見てもわかりますが、プロはまったく無理のない最小限の動きでボールをいとも軽々と遠くへ飛ばしますが、政治家などアマチュアのそれは変なくせがあって無惨なばかりのフォームです。

演奏の姿勢や動きがどこかおかしい人は、やっぱりそこから紡ぎ出される音楽も、姿形があまり美しくはないという、考えてみれば当たり前のようなことを確認できたということでした。