ごりっぱ

現代のバッハの名手であるエフゲニー・コロリオフの弾くシューベルトを聴きました。

曲目はピアノソナタD.894「幻想」とD.959という、晩年および最晩年の大曲。
D.894は1826年に書かれ同時期には交響曲のザ・グレートがあり、翌年にはドイツリートの金字塔である「冬の旅」が、さらに翌年には3つの最後のソナタD.958─960を書いたのち、同年11月、31才という若さでシューベルトはこの世を去ります。

ディスクには2012年12月の録音とあり、この感じなら追ってD.958とD.960もカップリングされてリリースされるような気がします。

コロリオフは1949年モスクワ生まれのロシア人ですが、すでにロシアよりもはるかに長い時間をドイツで過ごしており、その演奏から聴こえてくるのは、音楽的には完全にドイツ圏に帰化したピアニストと云って差し支えないと思われます。

さて、このシューベルトの2曲ですが、さすがにコロリオフらしく一音たりともゆるがせにしない真摯さにあふれ、解釈もきわめて正統的で注意深く、すべての音は磨き抜かれています。それでいて尊大さがないのはこの人の良心的な人柄のなせる技なのかもしれません。

コロリオフこそはピアノに於けるノイエ・ザハリカイト(芸術を主観に任せず、客観的合理的にとらえる考え方。音楽では楽譜を尊重し解釈演奏する)の現役旗手とでもいうべき人で、楽譜に忠実な演奏がそこに広がり、ここまでやられるとぐうの音も出ない感じです。

まるでドイツの最高権威の演奏とはこういうものですよという模範が示されているようでもあり、加えて聴きごたえじゅうぶんの濃厚さと、全体を貫く気品が見事に両立している点もいつもながらさすがです。
おそらく音楽の研究者や、直接の演奏行為に携わるピアニストなどは、専門的関心や解釈など何かと参考になりやすく、こういう演奏を崇拝する向きも多いだろうと思われます。

ただ個人的には、このような全方位的完璧を達成した演奏は、100点満点の答案用紙を束で見せられるような気もしないでもありません。純粋に音楽を聴く喜びや意義という点からいうと、音符に対してすべてが正しく吟味された演奏であることだけが必ずしも正解か否かを考えさせられるところ。

それぞれが4楽章からなるソナタで、CDには計8つのトラックがありますが、どこを取り出して聴いても理路整然とした折り目正しい解釈と、それを実現した演奏がそこに確固として存在し、最高級の工芸品が8つ、整然と並べられているようでもあります。

悲痛に満ちた晩年のシューベルトの生身の心に触れる演奏というより、すべてが確信を持って書き上げられた堅固な芸術作品のようで、それを最高の精度で再生するというところに特化された演奏のようでもあり、そこに一種の単純さを感じなくももありません。

いまさらですが、やはりマロニエ君はシューベルトの歌やうつろいの要素を随所で感じさせてほしいというのが正直なところで、コロリオフの演奏が本当にシューベルトの本質に迫っているものかどうかは判じるだけの自信は持てません。でも素晴らしい演奏というものは、もうそれだけで途方もないパワーと魅力があるもので、そんなことを感じつつ何度も何度も聴いてしまいます。

ふと、デヴィッド・デュバル著の『ホロヴィッツの夕べ』(青土社)に、次のような一節があったことを思い出したので、それを付記します。
「現代の演奏は、十九世紀後半の自己耽溺への反動で、作曲家の楽譜を神聖視する。─略─ 楽譜の文字を信じ、それはしばしば作曲者への尊敬になった。この姿勢と完璧な録音は、音楽の解釈を単一化することになり、無感動の元になった。これは音楽の生命を脅かし、多くの若い演奏家たちを音楽の心から切り離した。」