「ウマが合う/合わない」という言葉があります。
人間関係の中には互いにそこそこ尊敬し、関係も良好であるのに、どうしても呼吸というか波長というか、何かが合わない相手というのがあるものです。
わだかまりもなく、むしろ積極的に親しくしようとしているのに、なぜか気持ちがしっくりこないといえばいいでしょうか。
これがウマが合わないということだと思います。
取り立てて理由もないのに、どうしても好きになれないと言うのはある意味深刻で、これはどうしようもないことで、運命とでも思って諦めるよりほかはないようです。
歯車の噛み合わないものは、もともとの規格が違うのだからつべこべいうことでもない。
こんな事が、実は音楽の中にもあると思います。
いかなる名作傑作の中にも好きになれない曲というのがあって、これはきっと、どなたにもそんな曲のひとつやふたつはあるだろうと思います。
中には、自分が未熟なためにその作品の魅力を理解できなかったというような場合もあれば、理想的な演奏に恵まれず、良い演奏に出会ってようやく好きになるというようなパターンもあるでしょう。
あるいは自分の年齢的なものにも関係があり、若い頃好きだった曲がそうでもなくなったり、逆にある程度の年齢になって興味を覚える作品もあるわけです。
マロニエ君の場合は、ベートーヴェンの弦楽四重奏やブラームスのピアノ曲、マーラーやブルックナーのシンフォニーなどは、若い頃はもうひとつ魅力を感じず、遅咲きだった記憶があります。
さらにはモーツァルトやシューマン、チャイコフスキーなどのめり込んだ時期があったかと思えば、その反動から聴くのが嫌になって長いこと遠ざかったりと、まあ自分なりにいろんな山坂があるものです。
ところが、中には時代/年齢その他の理由を問わず、終始一貫どうしても好きになれない曲というものがあります。
マロニエ君にとって、その代表格が例えばムソルグスキーの展覧会の絵で、これは何回聴いても、いくつになっても、どうしても好きになれません。あれだけの作品なのですから、悪いものであるはずはなく、自分の耳がおかしいのか、理解力が及ばないのだろうなどとあれこれ思ってはみるものの、要するに嫌なものは嫌なのであって、いわば生理的に受けつけないのです。
有名なラヴェルの管弦楽版も、だからまともにしっかり聴いた覚えがないほどです。
しかし、オリジナルのピアノソロは演奏会でもしばしば弾かれる(それもプログラムのメインとして!)ことがあり、あのプロムナードの旋律が鳴り出すや、条件反射のようにテンションが落ちてしまいます。
このときはできるだけ気を逸らし、会場のあちこちを観察したり、楽器や音響のことを思ったり、あるいは明日の予定はなんだったかなどまったく別のことを考えながら、ひたすら終わるのを待ちますが、音楽というのは待っていると長いものです。
今年のいつごろだったか、ファジル・サイが福岡でリサイタルをやりました。最近では珍しく「聴いてみたいピアニスト」であったにもかかわらず、プログラムに「展覧会の絵」の文字を見たとたん気分が萎えてしまい、けっきょく行きませんでした。
マロニエ君は基本的にプログラムは二の次で、誰が弾くのかという点がコンサートに行く際の決め手ですが、ここまでくると二の次というわけにもいかないようです。