わからぬまま

来年はショパンコンクールの開催年ですが、このコンクールの歴史にはポリーニやアルゲリッチのようなスーパースターを排出した経緯があるいっぽう、優勝者の該当なしで幕を閉じるという珍事が1990年と1995年に立て続けに起こりました。

このため2000年の第14回では「なんとしても優勝者を出す」という強い方針のもとでコンクールは開かれ、ブーニンいらい15年ぶりに優勝を飾ったのがユンディ・リであったことは良く知られているところです。

優勝者を出すか否かは非常に難しい問題だと思います。
ショパンコンクールといえばまさにピアノコンクールの最高峰で、そこには自ずとコンクールの権威というものが深くかかわってくるでしょう。
相対的1位が優勝か、あるいは真に優勝に相応しい才能だとみとめられた者が名実ともに優勝者となるのか…。

若いピアニストの質を問うという厳格な観点から見るなら、その栄冠に値する者がいないとみなされた場合、優勝者なしという結果で終わらせるべきかもしれません。しかし、いかにショパンコンクールといえども運営という側面があり、優勝者不在となれば5年にいちど世界が注視するこのコンクールがぱったりと盛り上がらなくなるのも現実です。
もっとも注目度の高い、国をあげてのお祭りイベントでもあるだけに、その主役が空席になることは許されないのかもしれません。

つい先日ですが、その優勝者不在の1990年と1995年に連続出場し、二度目に第2位となったフィリップ・ジュジアーノのコンサートを聴くため、福岡シンフォニーホールに行きました。

曲目はショパンの前奏曲op.45、バルカローレ、バラード全曲、スクリャービンのop.8のエチュード全曲他というものでしたが、聞こえてきたのは、まるで軽いランチのような演奏で、このピアニストの聴き所はいったいどこなのか、ついにわからぬまま会場を後にしました。ショパンはもちろん、スクリャービンに於いても作品の真実に迫るものはあまりなく、表現も強弱も、小さな枠の中でかろうじて抑揚がつくだけで、ほとんど変化に乏しいものでした。

当然ながら聴衆もテンションが上がることなく、マロニエ君の近くでもかすかな寝息が左右から聞こえてきたほか、休憩時間に会場でばったり会った知人も「寝てましたね」とこぼしていたほどでした。これでは、わざわざチケットを購入し会場に足を運んだ側にしてみれば、満たされないものが残るのもやむを得ません。

ジュジアーノ氏は長身のフランス人で現在41歳、心身共にもっとも力みなぎる時期だと思われますが、そんな男性ピアニストが、淡いレース編みのような演奏に終始することに不思議な印象を覚えてしまったのはマロニエ君だけではなかったはずです。

ピアニストの中には大きな音を出してヒーローを目指す向きもありますが、それは腕自慢なだけのいわば野蛮行為で、むろんいただけません。そのいっぽうで、立派な体格の男性が、骨格のないタッチでさらさらと省エネ運動みたいな演奏をすることは、これはこれでかなりストレスです。

コンサートというものは、演奏者の個性や才能を通して出てくる音楽の現場に立ち合うこと。その演奏に導かれ、酔いしれ、あるいは翻弄され、心が慰められたり火が灯ったり、場合によっては打ちのめされたいということもあるでしょう。それが何であるかは、演奏によっても受け止める側によっても異なりますが、なんらかのメッセージを得られないことにはホールに足を運ぶ意味がありません。

厳寒の公園を早足で駐車場へ向かいながら、優勝の「該当者なし」という判断が二度も続いた当時の審査員の苦悩がわかるような気がしました。