山葉と河合

NHK朝の連続ドラマ『マッサン』に登場する鴨居商店の大将とマッサンは、のちのサントリーとニッカの創始者であることは驚くべき話ですね。しかもそれぞれのウイスキー「山崎」と「竹鶴」は現在世界で最高位の評価を受けているというのですから呆れるほかはありません。

ウイスキーほどの一般性があるかどうかはともかく、ピアノもかなり似たような感じです。
伝えられることをかい摘むと、ヤマハの創始者である元紀州藩士の出である山葉寅楠は手先が器用で、たまたま浜松で医療器具の修理などをしていた腕を見込まれ、地元の小学校にあるオルガンの修理を引き受けます。それがきっかけで、当時非常に高価だった輸入物のオルガンを安く作ることを思い立ち、やはり浜松で職人をしていた河合喜三郎を誘って数ヶ月かけ、見よう見まねでついには一台のオルガンを作り上げるのです。

その出来映えを東京音楽学校で見てもらおうと、二人はオルガンを担ぎ箱根の山を越え、実に250キロもの道を踏破したというのですから驚きです。これが明治の中頃(1887年)の話。

果たして、この最初のオルガンは音階などが不十分で失敗作に終わったようですが、当時の校長であった伊沢修二は国内での楽器造りを大いに推奨し寅楠は猛勉強を開始。アメリカ留学を経た後、明治33年(1900年)には国産第一号のピアノの作り上げるのですから、今では考えられない活劇のようですね。

帰朝した後に始めたピアノ造りのメンバーには、さまざまな発明などをして浜松で有名だったという若い河合小市も入っており、彼の創立した会社が後にカワイ楽器となるあたりは、まさに『マッサン』のピアノ版といえそうです。

とりわけ最初のオルガン製作と、箱根越えなど苦心惨憺の末に東京までこれを担いで行った二人が、山葉と河合であったというのは、まるで出来すぎの三文芝居のようですが、どうやらこれは事実のようです。

山葉寅楠と河合喜三郎は共同で山葉楽器製造所を設立しているようで、喜三郎が河合楽器の創始者である河合小市とどういう関係であるのか(あるいは関係ないのか)がいまひとつよくわかりませんが、いずれにしろそのまま朝ドラか大河にしてほしいような話です。

当時の日本といえば、ピアノの製造の経験はおろか、音階も満足に理解できない西洋音楽の下地もなかった明治時代で、そんな時代の日本人が、最初のアップライトピアノを作り上げたのが1900年、つづく1902年にはグランドを完成させ、ここから世界的にも例の無いような急成長を遂げるのです。
この山葉と河合はのちにヤマハとカワイとなって世界的なピアノメーカーへ輝かしい階段を一気に駆け上り、奇跡のような成功をものにするのですから、やはり日本人の特質は尋常なものではないと思います。

自ら開発することなく、既製の技術力を外国から投下され(もしくは盗み取って)、物理的な生産にのみこれ努めるどこかの国とは根本的に違います。
はじめのオルガン作りからわずか百年後、東洋の果ての小さな島国で生まれたヤマハとカワイは、欧米の伝統ある強豪ピアノメーカーをつぎつぎに打ち破り、ついにはショパンコンクールの公式ピアノに採用されるなど、今ではこの二社はピアノ界で当たり前のブランドになっています。

わけても有能な設計者でもあった河合小市の存在は、日本のピアノの発展史に欠くべからざる能力を発揮したようで、複雑な精密機械ともいえるアクションの開発には特筆すべき貢献をしたといいます。
以前もどこかに書いたかもしれませんが、カワイのグランドピアノの鍵盤蓋にだけ記される「K.KAWAI」の文字はまさに河合小市この人のイニシアルなのです。

まさにピアノのマッサンですね。