ひとりだけの危険

故障知らずの日本車と違い、数の少ない輸入車に乗るのは、劣悪な条件の下での維持管理との戦いでもあり、いかに趣味とはいえ時としてしんどいものです。

古いシトロエンという特殊性と、それを乗り続けたい弱みから、相当な変わり者のメカニックとのお付き合いを続けていましたが、その忍耐にもさすがに限界が来ていたところ、ふってわいたようなチャンス到来で別のディーラーへ行くようになり、少しばかり状況が好転したことは以前このブログで書きました。

それいらい、ふと感じるようになったことがあります。
というのも、いちおう悦ばしいことに、新しいメカニックの手が入ってからというもの、車の調子が明らかにワンランク上がり、乗っていて楽しい、買った頃の魅力が我が手に戻ってきたような変化が起こったことでした。いまさら前のメカニックの腕を糾弾しようというのではありませんが、技術者というものにも流儀/くせ/センス、あるいはその人の性格や人格までもがその仕事ぶりにかなり出てしまうものです。

これは技術と名のつくすべてのものに通じることでもあると思います。

そしてしみじみ思ったことは、一人の技術者だけに頼り切ることは決して正解ではないということ。
医療の世界でも、医師はいわば人体における技術者です。医療現場ではセカンドオピニオンという言葉があるように、最近では複数の医師の診察を受けて最良と思われる治療を選び取る権利が患者側にも認識されています。

これはピアノも同様のはずですが同様とは言い難いものがある。
調律師とお客さんの関係というのは、いかにも日本的閉鎖的な人のつながりで、ジメッとした人間関係が主導権を握り、技術が優先されることはなかなかありません。なにかというと「お付き合い」が幅を利かせますが、そうはいってもタダでやってもらうわけではなく、それはちょっとおかしくないかと思うのです。
ひとつには、調律師の技術というものがなかなか判断しにくいという事情も絡んでいることもあり、それだけに「お付き合い」といった要素が一人歩きしやすいのかもしれません。

マロニエ君の知る限りでも、あきらかに仕事の質が疑問視されるような場合においても、依頼者は長年のお付き合いという情緒面ばかりを重要視する、もしくは過度の遠慮をして、なかなか別の人にやってもらうという試みをしたがりません。別の人に変えたら、今までの調律師さんに悪い、申し訳ないというような気持ちになるらしいのです。

そういう気持ちがまったくわからないわけではありませんが、基本的にはそんな本質から外れたことでずっと縛られるなんて、こんな馬鹿げたことはないというのがマロニエ君の持論です。
もちろん調律師さんも人間ですから、お客さんが別の人に仕事を依頼したと知ればいい気持ちはしないでしょう。しかし、そこは意を尽くした処理の仕方でもあるし、詰まるところ何を優先するのかという問題でもあるでしょう。

忘れてはならないことは、ピアノはれっきとした自分の所有物なのであって、調律師さんとのお付き合い維持のために調律をやっているのではなく、自分が気持ちよくピアノを弾くことができるように楽器を整えてもらうということです。そのための調律を含むメンテナンスなのであるし、その仕事にはきちんと対価を支払うわけですから、ここで変な遠慮をして、弾く人がガマンをすることになるのは本末転倒というものです。

そもそも調律師さんは何十人何百人という顧客を抱えており、プロとしてやっている以上、その微量が増減するのはどんな業界でも日常のことでしょう。ましてピアノだけが一人の調律師さんと生涯添い遂げる必要なんて、あるはずがありません。

調律師さんと一台一台のピアノの関係は、年に一度か二度、数時間のみと接するのに対して、ユーザーは年がら年中そのピアノとどっぷりつきあっているわけで、ここで変な妥協をしたところでなにも得るものはありません。また、上に述べた車や医者のように、違った調律師さんにやってもらうことで全然違った新しい結果を生むことも大いにあるわけで、それをあこれこれ試してみるのはピアノの健康管理のためには必要なことだと思います。

こう書くとマロニエ君はもっぱら技術優先で、ドライなお付き合いをしているように誤解されそうですが、調律師さんとの人間関係はおそらく平均的なピアノユーザーよりは、遥かに大切にしていると自負しています。
しかし、だからといって夫婦や恋人ではあるまいし、未来永劫その人一筋というわけにはいきません。むやみに技術者を変えるのがいいわけはありませんが、すっきりしないものがあるとか、これはという出会いやチャンスがあったときには、躊躇なく新しい方にもやってもらうのがマロニエ君のスタンスです。