印刷体の演奏

日頃から自分が感じていることが、上手く言葉に表現できずにもどかしく思っているところへ、適切に表現された文章に邂逅するとハッとさせられ、胸につかえていたものが消えたような気になるのは、誰しも経験しておられることだと思います。

マロニエ君もそういうことはしばしばなのですが、つい最近も、音楽評論で有名な宇野功芳氏の著書『いいたい芳題』の中に次のような一文があり、思わず「その通り!」だと声を上げたくなりました。
ただしこれは宇野功芳氏自身の文章ではなく、同じく音楽評論家の遠山一行氏(昨年末に亡くなられ、夫人はピアニストの遠山慶子さん)の『いまの音、昔の音』というエッセイから宇野氏が引用紹介されたものです。

「いまの演奏家には草書や行書は書けなくなっており、楷書で書く場合でも、それはほとんど印刷体に近いものになっている」

これにはまったく膝を打つ思いでした。
オーケストラを含めたいまどきの演奏は、表面的にはきれいに整っており、ある種の洗練もあれば技術的裏付けもあるけれど、そこには不思議なほど音楽の本能や実感がありません。サーッと耳を通り過ぎていくだけで、当然ながら深い味わいなども得られない。
これを内容の欠如だとか、情感不足、主体性の無さ等々、あれこれの言葉を探し回っていたわけですが、まさに印刷体という、これ以上ないひと言で言い表された適切な言葉に行き当たったようでした。

いまの演奏は、解釈もアーティキュレーションも流暢な標準語のようだし、技術の点でも科学的裏付けのある合理的な訓練のおかげで非常に高度なものが備わり、その演奏にはこれといった欠点もないように思えるものです。しかし、肝心の音楽の本質に触れた時の喜びとか陶酔感、聴き手の精神が揺さぶられるような瞬間がないわけです。
これはまさに印刷体であって、美しいと思っていたのは、活字のそれだったというわけでしょう。まったく言われてみればその通りで、このなんでもない比喩がすべての違和感を暴きだしてくれたようでした。

これは考えてみればすべてのものが似たような経過を辿っているようにも思えます。
美術の世界もそうで、緻密で色彩の趣味も悪くない、構成力もあって、いかにも考え抜かれた作品というのが近年は多いのですが、作家の生々しい顔とか感性の奔流のようなものがない。
いわゆる作者自身の本音とは違った、計算された企画性のようなものを感じてしまって、すごい作品のようには見えても、精神が反応するような作品はほとんどありません。

芸術作品は破綻するのが良いといったら言い過ぎですが、破綻しかねないぐらいの危険性は孕んでいなくてはつまらないし魅力がないものです。その点で云うと最近の作品や演奏にはそういった危うさがないわけです。

情報の氾濫によって、よけいな知恵は付くし、そうなると評価の取れそうな結果だけを目指すのでしょう。
ある程度の結果が想像できるということは、その結果を見据えて仕事を進めて行くことが、最短距離の賢いやり方のように思えてしまうのが我々人間の思考回路なのかもしれません。

人が純粋に燃え上がることができるのは、案外結果が見えないとき、行き着く先がどうなるかわからないとき、混沌としたものの中に身を浸しているときなのかもしれません。
はじめから表現の割り振りが決まっているようなものは、どう説明されてもつまらないものです。

純粋な表現行為の中には無駄やひとりよがりも多く含まれてリスクも高い。効率よく結果だけがほしい現代人は、なにより無駄や回り道を嫌います。だから印刷体の演奏になるのも頷けます。