前後で聴き比べ

NHKのクラシック倶楽部は、通常はひとつのコンサートを55分の番組に収めて放送しているものですが、ときどきその割り振りに収まらなかった曲などを拾い集めるようにして「アラカルト」と称し、とくに関係も脈絡もない2つのコンサートが抱き合わせで放送されることがあります。

先日も番組の前後でニコライ・ホジャイノフとアンドリュー・フォン・オーエンの取り合わせというのがありました。
以前見た覚えのあるホジャイノフのリサイタルから放送されなかったベートーヴェンのソナタop.110とドビュッシーの花火、オーエンのほうは悲愴ソナタと月の光という、どちらも現代の若手ピアニスト、近年の来日公演、さらにはベートーヴェンとドビュッシーという、どうでもいいような組み合わせで無理に共通項をつくったようでした。

ホジャイノフは音楽的に嫌いなピアニストではありませんが、さすがにベートーヴェンのソナタは力不足が露呈してしまう選曲で、まったく彼のいいところがでない演奏だと思いました。これだけ有名で、内在する精神性そのものが聴きどころである後期のソナタを奏するからには、それぞれのピアニストなりの覚悟であるとか、収斂された表現など…それなりのなにかがあって然るべきだと思ってしまいますが、ただ弾いているだけという印象しかなく、練り込みやひとつの境地へ到達の気配がないのは落胆させられるだけでした。

曲の全体を演奏者が昇華しきれていない段階でディテールにあれこれの表情などを凝らしてみたところで、ただ小品のような色合いを与えるだけで、聴いているこちらの心の中が動かされるようなものはどこにもありませんでした。
まだ花火のほうが無邪気な自由さがあってよかったようです。

この時の会場は武蔵野市民文化会館の小ホールでピアノはヤマハのCFX、とくに好きなタイプの楽器ではないけれど、非常によく整えられておりヤマハの技術者の矜持のようなものは感じる楽器でした。

変わって、映像は紀尾井ホールへと場所を変え、オーエンの悲愴が始まります。
冒頭の重厚なハ短調の和音が鳴ったとたん「アッ」と思いました。
こちらはやや古いスタインウェイですが、ヤマハとはまるきり発音の仕方が違うことが同じ番組の前後で聞き分けられたために、まるで楽器の聴き比べのように克明にわかりました。
スタインウェイだけを聴いているときにはそれほど意識しませんが、こうして前後入れ替わりに聞かされると、スタインウェイは弦とボディを鳴らす弦楽器に近いピアノであり、ヤマハは一瞬一瞬の音やタッチで聴かせるピアノだと思いました。

ヤマハはいうなれば滑舌がよく単純明快な音ですが、スタインウェイはより深いところで音楽が形成されていくためか、ヤマハの直後に聞くとどこか鈍いような感じさえ与えかねません。

腕に自信のある人が、その指さばきを聴かせるにはヤマハはもってこいで、弾かれたぶんだけピアノが嬉々として反応し、もてる美音をこれでもかとふりまきます。とくにCFXになってからは美音のレヴェルも上がり、洗練された現代のブリリアントなピアノの音が蛇口から水が出るように出てきます。

これに対して、スタインウェイはタッチ感というものをそれ以外のピアノのように前に出すことはありません。
むしろそこを少し控えめにして、作品のフォルムを音響的立体的に表現します。
個々の音もCFXを聞いた直後ではむしろ物足りないぐらいで、ピアニストの演奏に対して過剰な表現は僕はしません!と言っているようです。そのかわり全体としての演奏のエネルギーが上がってきた時などは、間違いなくその高揚感が腹の底から迫ってくるので、ある意味で非常に正直というかごまかしの効かない楽器であるけれども、力のある人にとっては決して裏切られることのない確かな表現力をもった頼もしいピアノだと思いました。

とくに音数が増えたときの結晶感と透明感、低音の美しさ、強打に対するタフネス、それに連なる高音のバランス感などは、まさに優秀なオーケストラのようで、スタインウェイというピアノの奥の深さを感じずにはいられません。
同時にヤマハの音を体質的に好む人の、その理由もあらためてわかるような気がしました。