高級の概念

書店に行くと、雑誌のコーナーでは音楽関係と自動車は習慣的に足を止めてしまいます。

音楽も車も共通しているのは、内容に重みや深みがなくなったということでしょうか。
雑誌といえども昔のような読み応えとか書き手の信念みたいなものはなく、どれもそつのない上っ面の記事ばかりが紙面を埋め尽くしています。対象の本質に迫るとか辛辣な批判も辞さないというような気骨ある記述などむろんお目にはかかれません。
どれもこれも広告収入を念頭に置いたゴマスリ記事ばかりですから、惰性で購読を続けている一誌以外、購入してじっくり読みたいと思うようなものはほとんどありません。

そういうわけで、大抵はパラパラ頁をめくるだけで事足りてしまいます。
マロニエ君は本は買いますが、雑誌に関してはほとんど立ち読みばかりで終わっています。

立ち読みしかしたことがなく、一冊も買ったことがないもののひとつに、クルマ好きの個人ガレージを取材して、それを一冊にまとめた雑誌が存在します。
たしか三ヶ月に一度ぐらい発行され、いつも自動車雑誌の目立つところに置いてあります。
車の雑誌も種類がずいぶん減りましたが、そんな中、今だに廃刊に追い込まれないところをみると、人の露出欲を満足させるものには一定の需要があるということなのでしょうか。

敢えてその雑誌名は書きませんが、これが見ようによってはお笑い満載の本なのです。
世のクルマ好きのお金持ち達が、これでもかとばかりに高級車を買い集め、それを陳列する夢のガレージを作ってはこの雑誌の取材を受け、掲載されるのがひとつのステータスになっているんだろうと思います。
中には、あきらかにこの雑誌を念頭において設計されているとしか思えない物件があり、そんな脂がしたたり落ちるような猛烈な自己顕示欲を集めて一冊の本にすると、全国の書店でビジネスとして成り立つだけの部数が売れるということでもあるんでしょうね。

取材される人たちが、その車のコレクションやガレージ建造に投じた費用は莫大なものに違いありません。
とりわけ毎号巻頭を飾るいくつかのガレージと車は、まさに億単位の「巨費」がかけられているのは明らかで、趣味という個人の内的な世界など遙かに飛び越えて、あくまで人に見せて自慢することを前提として設計され建造されたものばかりです。
よく芸術の世界で「猥褻」が論争の的になりますが、こういう雑誌を見ると「滑稽」という概念に対する考察を提起をされているようでもあり、いつも笑いを押し殺しながら頁をめくるのに難儀します。

本物の滑稽というのは、やっている本人が大真面目であればあるだけ、笑いの純度は上がるもの。
これらのガレージに居並ぶのは、大抵がフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェにはじまり、ロールスやベントレーなど、要するにすこぶる高額なわかりやすい高額車ばかりで、それも1台や2台では終わりません。そしてガレージの設計や内装は、まさにディーラーのショールーム風スタイリッシュでまとめられるのが少なくありません。フェラーリが居並ぶ壁には、馬がヒヒンと立ち上がった有名なマークの巨大なやつがほぼ間違いなく取り付けられるなど、お約束アイテムの羅列ばかりで独創性はほとんどナシ。
私費でメーカーの宣伝を買って出ているつもりか、はたまたどこぞの宗教のシンボルのようでもあり、個人宅のガレージというものを完全に逸脱した感性で塗りつぶされ、しかもそこが自慢のポイントであることが伝わってくるあたりは、この本は見るたびに全身がむず痒くなります。

大抵はガラスで仕切られた一角などがあり、そこに高級な椅子とテーブル(多くはイタリア製!)、場合によってはワインセラーやホームバーのようなものが設えられていたり、あるいはリビングのソファに体を埋めながら常に愛車を目線の先で舐め回すことができるよう、人と車がガラスひとつで仕切られた動物園のような設計だったりと、普通なら冗談かと思えるようなものが、大まじめに「男の夢の実現」として、大威張りで強烈な主張をしています。
しかも、それら憩いの設備は「ここの主の、友人への心配り」などと修辞されているのですから、そのセンスがたまりません。

クルマ好きが愛車を駆って会するのに、バーまであるとは、アルコールが入って酒気帯び運転にならないのかと気になりますが、そこはきっとホテル顔負けの宿泊施設も準備されているのかもしれません。

知らない人が予備知識ナシにこの手の超豪華ガレージを見せられたら、おそらくショールームか店舗の一種ではと思うはずです。ここでマロニエ君がいいたいことは、高級とか贅沢というものは、決して「店舗のようなしつらえにすること」ではないということです。

例えば、社会的地位のある人などが家を新築したりする際、純和風というテーマのもとに建ち上がったそれは、まるで粋な料亭のような趣で、個人の住宅に求められる品性とは何かという本質や作法がまるきり理解できていないことが少なくありません。どれほどの地位や経済力があろうとも、教養や文化的素養はまた別の話のようです。
これらの和風住宅にしろガレージにしろ、その建て主の心の中にある「高級」という概念の源泉がどこからきているか…それが悲しいほどに顕れてしまっているわけですが、まあご当人はご満悦の極みなのでしょうから、もちろん結構なことですが。