都市伝説

グランドピアノの鍵盤蓋を開いたとき、その上端が90°ほど畳むように折れ曲がるようになっているピアノがときどきあります。
現在は僅かな手間も惜しんで、徹底したコストダウンを敢行する潮流なので、現行モデルではほとんどなくなったと思いますが、昔はヤマハにも、カワイにも、ディアパソンにもこのタイプがありました。

スタインウェイでもハンブルクは通常のスタイルですが、ニューヨーク製は中型以上のモデルにはこの鍵盤蓋上端の折れ曲がり機構が標準仕様です。

さて、この鍵盤蓋の前縁が折れ曲がる理由は何かということですが、これには諸説飛び交うばかりでいまだ決定打らしきものがありません。

もっとも多数派なのは、演奏者が熱演極まって手の動きが激しくなった場合、通常の鍵盤蓋だと指先が縁に当たる恐れがあるので、それを避けるためにこの部分が折れ曲るようになっているというものです。
なるほどという感じですが、じゃあ熱演のあまりピアニストの指先が鍵盤蓋の縁に当たるというようなシーンを見たことがあるかと言われると…実はありません。
チェルカスキーやルビンシュタインなどは激しい動きで両手を垂直に上下させたものですが、指先が鍵盤蓋の縁に衝突するなんてことはまずないようでした。
となると、これはイマイチ説得力がありません。

次になるほどと思ったのは、縁を下に曲げていると、万が一ふいに蓋がバタンと閉まるようなことがあっても、この折れ曲がった縁が左右の木部に当たることで、指先をケガする危険がないというものです。
いわば安全機構というわけで、やってみると確かにそれも一理ありという感じでもあり、これはこれで、それなりにいちおう納得してしまいました。

果たして後者が真相かと思っていたら、先日来宅された技術者さんによると、また新しい説を披露されました。
それは上部から照明をあてると、ピアノの鍵盤は、光の角度によほど気をつけないと、鍵盤蓋の前縁のせいですぐに影になってしまうので、それを避けるために折り曲げることができるようになっているのではないか…という推量でした。

たしかにステージでは、照明のせいで、鍵盤に変な日向と日陰ができたら演奏者は弾きづらいかもしれません。でも、もしそうならコンサートピアノなどはもっと多くのモデルがこの機構を備えていそうなものですが、実際はない方が圧倒的に多く、やはりこれも決定的ではないような気がします。

マロニエ君個人は単に見栄えの問題ではないかと思います。
べつに縁が折れ曲がったほうが見栄えがいいとも思いませんが、なんとなく、ただ鍵盤蓋をカパッと開けただけよりは、さらにもう一手間かけて上部を下に向けて折り曲げたほうがいいというふうに、すくなくとも考えられた時代があったのではないかと思うのです。

もちろんこれも単なる想像にすぎませんが。

思い出すのは、ある大手楽器店のピアノ販売イベントに行った折、そこの最高責任者の人が意気揚々と案内してくれて、一台の中古のニューヨークスタインウェイのB型の前でことさら声高らかにこう言い出しました。
「このピアノは、もともとあるピアニストの方が特注されたものです。ほら、ここが折れ曲がるでしょう? これはピアニストの方の要望で、指先が当たらないように特別に作られたもので、スタインウェイでも非常に珍しいピアノなんです!」と、ずいぶん大きな声で言われました。

あまりにも自信たっぷりの説明で、しかも周囲には他にも人がちらほらいて、なるほどという感じに聞いておられたので、「ニューヨークスタインウェイでは、これは標準仕様ですよ!」とはさすがに言えませんでしたが、それにしても、こんな大手楽器店のピアノの最高責任者がこんな程度の認識なのかと思うと、非常に複雑な気分になったことは今も忘れられません。
こういう見てきたようなホラが一人歩きして、いつしかまことしやかに流布されていくのだろうと思うと、いわゆる都市伝説とはおおよそこんなものだろうと思いました。