先日のNHKクラシック音楽館でガヴリリュクを独奏者としたプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番をやっていたのでちょっとだけ見てみました。
会場はNHKホール。ガヴリリュクは開始早々から、いささか過剰では?と思えるほどの熱演ぶりでしたが、さてそうまでして何を表現したいのやら狙いがもうひとつわからない演奏という印象でした。
上半身はほとんど鍵盤に覆いかぶさるようで、終始エネルギッシュなタッチでプロコフィエフのエネルギーを再現しようとしたのかもしれません。渾身の力で鍵盤を押し込み、湧き出る大量の汗は鍵盤のそこらじゅうに飛び散りますが、出てくる音としてはそれほどの迫力とか明晰さ、表現上のポイントのようなものは感じられません。
ガヴリリュクはあまり自分の好みではない人だということは以前から思っていましたが、この日は第一楽章を聴くのがやっとで、残りは視ないまま終わってしまいました。
音が散って消えるNHKホールであることや、録音編集の問題もあろうかとは思いますが、これほど汗だくのスポーツのような熱演にもかかわらず、ピアノ(スタインウェイ)が一向に鳴らないことも聴き続ける意欲を削いでしまった要因だったろうと思います。
鳴らないピアノの原因がなんであるかはわかりませんが、まるで押しても引いても反応しない牛のようで、かなりストレスになることだけは確かです。
それから数時間後、日付が変わってのBSプレミアムでは、パリオペラ座バレエ公演から、このバレエ団総出による『デフィレ』があり、ベルリオーズのトロイ人の行進曲に合わせて、バレエ学校の子供から、バレエ団の団員、さらにはエトワールまでが、ガルニエ宮の途方もなく奥行きのあるステージ奥からこちらへ向かって、バレエの基本的な足取りで行進をする演目は楽しめました。
なぜこんなことを書いたかというと、その『デフィレ』に続く演目は『バレエ組曲』で、舞台上にスタインウェイのDが置かれ、ピアニストが弾くショパンのポロネーズやマズルカに合わせてバレエ学校の生徒たちが踊るというものですが、この時のピアノがとても良く鳴ることは、前述のガブリリュクが弾いたピアノとはいかにも対照的でした。
ピアノのディテールから察するに、おそらくは30年前後経った楽器と推察されますが、低音などはズワッというような太い響きが遠くまでハッキリと伝わってきますし、全体的にもつややかな明瞭な音が健在で、もうそれだけで聴いていて溜飲の下がる思いでした。
このピアノをそのままNHKホールのステージにもってきたなら、ガブリリュクの演奏もやっぱり全然違っただろうと思わないではいられないというわけです。
よく調律師の説明に聞くフレーズですが、「弾き手は、鳴らないピアノでは、自分のイメージに音がついてこないため、よけいムキになって強く弾こうとする」といわれるように、ピアノが違っていれば、ガヴリリュクもあそこまで意地になって格闘する必要はなかったのでは?と思ってしまいました。
楽器販売に関わる技術者は、新しいピアノを肯定することに躍起になっているとみえて、新しいほうがパワーが有るなどと口をそろえて主張します。
それは新しいピアノ特有の若々しさからくるパワーのことで、これもパワーというものの要素のひとつとも言えるでしょうが、厳密に言うならピアノのパワーの本質というのはそういう局部的一時的な問題ではない筈だと思います。
べつに今の新しいスタインウェイを否定しようという考えはありません。マロニエ君にはわからないだけで新しいスタインウェイにしかない魅力もきっとあるのでしょう。しかし、少なくとも、かつてしばしば聴かれた芳醇で澄明で余裕に満ちたあのスタインウェイのサウンドというものは、その時代のピアノにしか求め得ないことだけは確かなようです。
もしも、ピアノが往年のホロヴィッツのように自分専用の楽器をどこへでも自由自在に持っていけて、少しでも気に入らなければ別の楽器に交換できるとしたら、きっとピアニストたちはこぞってお気に入りの楽器を探しまわり、それぞれの個性や美意識に基づいた調整を施し、それ以外のピアノには手も触れないようなことになる気がします。
そんな自由が与えられ、ステージという真剣勝負の場で弾く楽器を選ぶとなると、それでも新品ピアノを本心から好むピアニストがどれだけいるのか…これを想像してみるのは面白いことだと思いました。