技術と才能

懇意にしていただいている調律師さんの中には、これまで他県で活躍されていた方もおられます。

その地域では、調律はもとよりホールのピアノの管理なども複数されていた由で、当然コンサートの仕事も数多く手がけられ、一部は現在も遠距離移動しながら継続している由です。ご縁があって我が家のピアノもときどき診ていただくようになりましたが、驚くほど熱心で密度の高いお仕事をされるのには感心しています。
しかしエリア違いのため、その方が調整されたピアノによるコンサートを聴いた経験は一度もなく、ぜひ聴いてみたいという思いが募るばかりでした。

そこで、もしライブCDがあれば聴かせてほしいと頼むと、4枚のCDをお借りすることができました。
いずれも第一線で活躍する名のあるピアニストのリサイタルですが、その中でもゲルハルト・オピッツの演奏会はとくに印象的でした。ピアノは1990年代のスタインウェイで、この技術者さんが管理されていたことに加えて、当日の調律も見事で、まったくストレスなく朗々と鳴っていることは予想以上でしたし、スケールが大きいことも印象的でした。

一般的に、日本の技術者のレベルはきわめて高いものの、どこか「木を見て森を見ず」のところがあり、いざコンサートの本番となるといまひとつピアノに動的な勢いがなく、どこかこぢんまりしたところがあるのは、何かにつけて我々日本人が陥ってしまう特徴のひとつなのかもしれません。
これは技術者が、つい正確さや安全意識にとらわれて、ある意味臆病になるためだと思います。マロニエ君は精度の高い基礎の上に、一振りの野趣と大胆さが加わるのを好みます。このわずかな要素にピアニストが反応することでより感興が刺激され、迫真の演奏を生み出す、これが個人的には理想です。

ところが多くの日本人技術者は比較的小さな枠内で作業を完結させる傾向があり、正確な音程と、まるで電子ピアノのような整った音やタッチにすることを好ましい調整だと思い込んでいる場合が少なくないのでしょう。ピアノ技術者の技術と感性は、究極的には職人的な才能と音楽性が高い接点で結びついていなくてはダメだと思うのは、やはりこんな時です。

最近は、見た目やマークは同じでも、演奏がはじまるや落胆のため息がでるような空っぽなピアノが多い中、久々にスタインウェイDによる、他を寄せ付けない独壇場のような凄まじさに圧倒されました。
優れた演奏によってはじめて曲の素晴らしさを理解するように、優れた技術者とピアニストを得たとき、スタインウェイはあらためてその真価をあらわすのだと思いました。

オピッツ氏も好ましいピアノに触発されてか、マロニエ君が数年前に聴いたときとはまるで別人のように、集中度の高い、それでいてじゅうぶんに冒険的で攻める演奏をしており、聴く者の心が大きく揺すられ、いくたびも高いところへ体がもって行かれるようでした。これこそが生の演奏会の醍醐味!といえるような一期一会の迫真力が漲っていることに、しばらくの間ただ酔いしれ感銘にひたりました。

CDを受け取る際、つい長話になってしまい、最後になってフッと思い出したように「あ、ぼく、一級の国家資格、受かってました」といってハハハと軽く笑っておられました。ずいぶん難しい試験だと聞いていましたが、すでに九州でもかなりの数の合格者が出ているらしく、そう遠くない時期に「持っていて当たり前」みたいなものになるのかと思うと、何の世界も大変だなあと思います。
曰く「…でもあれは、本当に技術者として一級云々というものでは全然ないですね。ただ単にその試験に対応できたかどうかという事に過ぎませんよ」と穏やかに言っておられたのが印象的でしたが、そのときマロニエ君が手に持っていたのは、まさにその言葉を裏付けるようなCDだったというわけです。たしかにコンサートの現場経験を積んで世間から認められることのほうが、はるかに難しいし大事だというのはいうまでもありません。

スタインウェイをステージであれだけ遺憾なく鳴り響くよう、いわば楽器に魂を吹き込むことのできる技術者は、マロニエ君の知る限りでも、そうそういらっしゃるものではありません。単なる技術を超えた才能とセンスがなくては成し得ない領域だからでしょう。
いまさらですがスタインウェイDは潜在力としては途方もないものを持っているわけですが、その実力を真に発揮させられるような技術者は本当にわずかです。

しかもそういう方々が、その実力に応じた仕事をする機会に恵まれているのかというと、必ずしもそうではない不条理な現状もあるわけで、ますます憂慮の念を強めるばかりです。

どんなに立派なホールに立派なピアノがあっても、肩書だけの平凡な調律師がいじくっている限り、一度も真価を発揮することなくそのピアノは終わってしまいます。中にはステージ本番のピアノに、まるで家庭のアップライトみたいな調律をして、平然としてしている人もおられますが、それでもほとんどクレームのつかないのがこの世界の不思議ですね。