マロニエ君の自室のビデオデッキはメーカーを誤ったのか、操作がやたら煩雑で、予約の仕方も消し方も未だにスイスイとはいきません。
ときどき昔の予約履歴の何かに引っかかってくるのか、まったく身に覚えがない番組が録画されていることも珍しくないので、ときどき番組を整理・消去するのですが、そんな中にNHKのドキュメントで歌手の北島三郎の公演を追った番組がありました。
本来ならまったく無関心どころか、むしろ甚だしく苦手なジャンルなのですが、ずいぶん前に友人から聞いた笑い話があったのをふと思い出しました。その友人の知り合いという人が、当時博多座にかかっていた北島三郎の公演にどうしても行かなくてはいけないことになり、はじめはずいぶん嫌がりながら出かけて行ったらしいのですが、結果はというと、その圧倒的な舞台を目の当たりにして「かなり感動して」帰ってきたんだそうで、予期せぬ変化に本人も友人も爆笑、そしてそれを聞いたマロニエ君も大爆笑でした。
いらい、そんなにすごい舞台とはいかなるものかという好奇心が頭の片隅に残っていましたので、これ幸いにちょっと番組を見てみることに。
北島氏は自身の舞台公演を長年にわたってやってきたらしく、前半は北島氏が主演、自ら脚本まで書くという芝居、後半は歌謡ショーという構成が長年のスタイルなんだとか。とりわけ歌謡ショーの舞台はこれでもかという絢爛豪華にして奇想天外なもので、見る者の度肝を抜くような仕立てで驚きました。そのための装置も相当のコストがかかっているらしいことは疑いがなく、これらは綿密な設計監修のもと川崎の専門工場で制作されているようでした。
近年は名門オペラの舞台でもコストダウンの波が押し寄せ、斬新なふりをした粗末な装置でお茶を濁す例が少なくないのに、一人の歌手のショーのためにここまでやるとは驚きです。
全国主要都市で40年以上続けられたというこの一ヶ月公演は、チケット完売も少なくないようで、今どき一夜のコンサートでも人が集まらないご時世に、いやはやすごいもんだと思いました。
観客はさすがに年配の方が大勢のようではありますが、その圧倒的な舞台とエンターテイメントに徹した作りは、まるでディズニーランドにも匹敵するような楽しさをチケット購入者に提供しているのかもしれません。
さて、なんのためにこんなことを書いたかというと、過日、このブログでベルリン・フィルのシルベスターコンサートに出演した老ピアニスト、メナヘム・プレスラーのことを書きましたが、それに連なる内容があったからです。
北島氏は50年連続出演した由のNHKの紅白を一昨年引退し、続いてこの一ヶ月公演にもついに自ら幕を引くのだそうで、番組はその最後を迎える公演に密着したドキュメントでした。
詳しい内情などはむろん知りませんが、番組を見る限りでは客足が遠のいたわけでないようで、固定ファン達はその公演の打ち切りをたいそう残念がっていましたが、それに関して北島三郎氏は(正確ではないけれど)おもに次のようなことを語っていました。
「そりゃあ、やりたいですよ。気持ちとしては止めたくないし、それこそ舞台で倒れるまでやりたいね。」「しかし、自分はプロとしてやっている。プロはお客さんからお金をいただいてやっているわけだから、そこでフラフラしたりみっともない姿は見せられない。だから辞める。」
つまりやりたいからやるというような甘っちょろい自由は、プロフェッショナルにはないんだという話しぶりで、マロニエ君は思わず膝を打ちました。
金額の多寡にかかわらず、プロと称する人たちの中には、人様からお金をいただくということの重みをまるで肝に銘じない、あるいはそもそも知らないような人たちがあまりに多く、平生苦々しく思っているところでしたから、この北島三郎氏の発言には拍手をしたい思いでした。
とりわけ歌舞伎役者など(全員とは言わないまでも)舞台人としては生涯甘やかされるばかりで、こういうことを一度でも考えたことがあるだろうかと思います。梨園に生まれたというだけで子役の時代から無条件に舞台を踏み、当たり前のように名跡を継ぎ、老いてセリフも忘れるほどになっても引退はせず、閉鎖社会ともいえる勝負性の希薄な舞台に立って、ぬくぬくと過ごすのが当たり前。
不倫をしてさえ「芸の肥やし」と許され、あげくに文化勲章をもらったり人間国宝に称せられたりするのは何なのかと思うばかり。
プロ意識というものの本質は、自らの裡に厳しいプライドをもって打ち立てられたものでなくてはならないことを、いまさらのように考えさせられました。