ドビュッシーの前奏曲といえば、フランスのピアノ音楽の中でも最高峰に位置づけられる傑作のひとつとして広く知られているものですが、マロニエ君はもうひとつこの曲集に近づきがたいものを感じていて、しっくりこないまま長い時間を過ごしてきました。
ずいぶんむかし、はじめてこの曲集のレコードを買ったのはミケランジェリの演奏で、その透徹した演奏や美音に感心というか、ほとんど服従に近いものがあり、長らく他のピアニストの演奏に触れる機会が少なくなってしまいましたが、その後はずいぶん種類も増えて、リヒテルも弾いていたし、近年では青柳いずみこやエマールなどをいちおう聴いてはいました。
それでもこの曲集に対する基本的な印象を覆すまでには至らず、ましてやポリーニのそれなど聴きたいとも思いませんでした。
そんなドビュッシーの前奏曲ですが、知人からおすすめCDのコピーを頂いた中に、フィリップ・ビアンコーニのそれがあり、これが思いがけず良かったことは嬉しい驚きでした。まずなにより、ハッとするような清新さと自然さをはじめてこの作品から感じとることができたように思ったのです。
この曲を弾く多くのピアニストは、ことさらドビュッシーを意識しすぎるのか、個々の違いはあるにせよ、掻い摘んでいうとしゃにむに印象派絵画のような仕上がりにしたいのか、ピアノという楽器の実態からあえて遠ざかるところに重きをおいたような、いささか芝居がかった演奏だったようにも思えます。
演奏は、演奏家の自然発生的に出てくるものなら聞き手の側にも自然に入ってくるものなのかもしれませんが、悪く云えば、ドビュッシーに同化する自分を演じているようで、本当に演奏者がそういう心境に達した上での演奏であったのか…となると、どうも鵜呑みにもできないような居心地の悪いものがついてまわる気がしていたというところでしょうか。
これがマロニエ君のこれまでのこの曲に対して(正確に言うならこの曲の演奏と言うべきかもしれませんが)、ようするにそんなふうな印象を抱いていたのです。
その点、ビアンコーニはもっとありのままというかストレートな音楽としてこの24曲を弾いており、そのぶん聴くものにも身構えさせない親しみが備わっているような気がします。なんというか、ようやくにして作品が、少しですが自分に近づいてきてくれたようでした。
つまりこれは、脚色されないドビュッシーというべきか、適当な言葉はよくわかりませんけれども、なんとなくドビュッシーがプレリュードで伝えたかったものは、こういうものだったのかも…と思えるような、そんな演奏に初めて接することができて、霧が少しだけ晴れてむこうの景色が少し見えたような気になりました。
音楽の演奏全般にいえることかもしれませんが、程よい自然さというか、要するに必然的な音の発生を感じるものには、それだけ好感を抱けるし、聴く者なりではあるけれど、曲を理解するについても最も早道になると思います。
ドビュッシーでいうなら過度なデフォルメをするのではなく、ラヴェルでいうなら過度なクールさを強調するのではない、音楽としての佇まいに対してもう少し作為的でない謙虚さのようなものを感じさせる演奏であってほしいと思います。
ピアノはヤマハが使われていますが、これがまたとても好ましく思いました。
というか、ドビュッシーには意外にもスタインウェイはまありフィットしないように思います。よくドビュッシー自身の言葉を金科玉条のように引用して、ベヒシュタインこそ最適なピアノのように言われますが、それもマロニエ君個人は心底納得はしていません。
ベヒシュタインの音はドビュッシーにはどこか野暮なところもあって、これが必ずしも理想とは思えない。
ただ、スタインウェイのすべてを語ろうというような豊穣な音色は大抵の場面ではプラスに作用するものの、ドビュッシーの和声や音色は、楽器から出た音がいったん聴くものの耳に入ったあとで、個々の感覚の中で遅れるように混ざりこみ収束していく過程が必要で、そのため楽器から出た瞬間の音はむしろ硬い、単調な音であるほうがいいのかもしれない気がするのです。
その点では少し前のヤマハは、現代的な音色と機械的な冷たさが、意外にもドビュッシーに合っている印象をもちました。
こんなことを書くとドビュッシーに詳しい方からは叱られるかもしれませんが…。