バケッティとファツィオリ

アンドレア・バケッティというイタリアのピアニストの弾くバッハが評判のようで、ならばとCDを購入して聴いてみることにしたのはいつのことであったか…ネットから購入すると、ものによっては入荷待ち状態が延々と(ときに数ヶ月も)続いてしまうことが珍しくありません。

バケッティのゴルトベルクももう忘れていた頃ポストに入っていたので、それを見てようやく注文していたことを思い出す始末で、ならばと早速聴いてみるとことに。
実をいうとバケッティのCDはこれが初めてではなく、マルチェッロのピアノソナタ集というのを、こちらは曲のほうに興味があって以前購入していたのですが、よく知るバッハでこのピアニストを聴くのは今回が初めてです。

冒頭のアリアも、最近の平均的なテンポからすると少し早めで、まず感じたのは、硬質なピアノの音色とやたらと装飾音の多いこと、さらにはやや表面的で無邪気な演奏という感じを受けたことでした。

ピアノの音も明晰と聞こえなくはないものの、どちらかというと平坦で、深みやふくよかさみたいなものとは逆の単純な感じを受けました。
なにより気にかかるのはその固さであり、その演奏と相まって、しばらく聴いていると、どうしようもなく煩わしい感じに聞こえてしまうのには弱りました。
音に輝きはあるので、はじめはこういう感じのスタインウェイだろうかとも思いましたが、よくよくCDジャケットを見ていると、下のほうに豆粒みたいな小さな「Fazioli」の文字があり、ああ、なるほどそういうことか!と納得しました。

弾き方もあるとは思いますが、妙にパンチ感のある音の立ち上がりや、しっとりというか落ち着いた気配がしないメタリックな感じは、マロニエ君にとってのファツィオリの特徴のひとつです。
これを巷では色彩的などと表現されることを思うと、それが何に依拠するかよくわかりません。

いつも感じるところでは(以前にも書いたことがありますが)、マロニエ君の耳にはファツィオリの音は根底のところでヤマハを思わせる音の要素があって、そちら方面の反応の良さみたいなものがあるのは確かなようで、だから好きな人は好きなんだろうなぁと思ってしまいます。

それとバケッティの演奏も終始ブリリアントで娯楽的ではあるけれど、少なくとも聴き手を作品の内奥だとか精神世界に触れるような領域に連れ出してくれるタイプではないようです。いつも才気走っていて、でも全体が俗っぽいといった印象です。

ピアノ演奏に対して、快適で単純明快な音の羅列を求める人には、バケッティの演奏は好ましいかもしれませんが、マロニエ君の好みからすると憂いとか詩的要素がなく、いつも元気にかけまわる子どものようで、言い換えるなら、せわしなくおちつきのない こせこせした印象ばかりが目立ってしまいます。
ゴルトベルク変奏曲を聴いているのに、ちっともその実感がなかったのは驚きでした。

打てば響くような反応やきらびやかさを求める向きには、ファツィオリはたしかに最高のピアノとして歓迎されるのかもしれません。
ただマロニエ君から見ると、ファツィオリが単純にイタリア生まれのイタリア的なピアノかといえば、いささか納得できかねるものがあるのも事実です。イタリアの芸術のもつ太陽神的な享楽と開放、そのコントラストが作り出す光の陰翳、豊穣な色彩、宗教の存在、荘厳華麗でほとんど狂気的な喜びとも苦悩ともつかないような命の謳歌、それと隣合わせの死の薫り…そんなものがどうにも見つけることが難しい、掴みどころのないピアノという印象が何年経っても払拭されません。

そういうイタリア芸術のあれこれの要素をこのピアノから嗅ぎ取ろうとするより、もっと単純によくできた高級な機械としてわりきって見たほうがこのピアノの本質に迫ることができるのかもしれません。

マロニエ君の思い込みかもしれませんが、もしヤマハが手作業をいとわぬ労を尽くして、チレサの最高級響板等を使ってピアノを作ったなら、かなり似たようなピアノが出来るような気がしてなりません。
この両者に共通しているものは、日本の工業製品が極めて高品質だといわれながら、どこかに感じるある種の「暗さ」みたいなものかもしれません。

近年のスタインウェイが次第に均一な量産品の音になってきているのに対して、ファツィオリは量産ピアノ的性格のものを、良質の素材と高度な工法で丹念に製造することで挑んだピアノという印象でしょうか。

腕に覚えのある技術者がヤマハなどにあれこれの改造と技を施したピアノに「カスタムピアノ」というようなスペシャル仕様が存在していますが、どことなくそんなイメージが重なってしまうのです。基音がそれほどでもないピアノのパーツやディテールにこだわって、鳴らそう鳴らそうとしたピアノは、ある面で素晴らしいと思うけれど、どこかボタンの掛け違いのような印象を残します。

ファツィオリにこれだという決定的なトーンが備わらず、調整技術だけで聴かされているような印象があるのは、未だになにか大事なものが定まっていないからかもしれません。