しらぬ顔

マロニエ君のように徹底して移動の手段をクルマに依存していると、ときどきは人を乗せるという機会があるものです。

そんなとき、今どきの流儀に著しく違和感を感じることも少なくありません。
せこい話だと思われるかもしれないけれども、昔とはずいぶん様子が変わってきたと思うシーンがあります。

外で人と会えば、流れでその人を車に乗せる状況になることは珍しくありませんが、マロニエ君に言わせるなら、車に乗せてもらう側にもそれなりの作法というものがあって然るべきで、実際、昔はそれはあったのですが、これが時代とともに衰退し、今はほとんどゼロに近いような状況に達してるというのが偽らざるところでしょう。

例えば出先で一緒になり、帰りに駅や家まで「送りましょう」となることがあるものです。
その際、車を有料の駐車場に止めていれば、昔なら間違いなくその駐車料金の支払いをめぐって一騒動があったものでした。
もちろんその騒動とは、「ここはワタシが!」「いやいや結構です!」「乗せてもらうんだからこれぐらい当たり前ですよ!」というような支払い合戦で、車の持ち主はこれをご遠慮というか拒絶するのが一仕事でした。人を何人か乗せて駐車場を出ようとすれば、助手席や後部座席から一斉に何本もの手が伸びてきて、それはもう数匹のコブラから狙われているようでした。

それがわかっているものだから、こちらの方でも予め小銭なんかを密かに準備して、サッと支払いができるようにするなど、今から思えばなんとも奥ゆかしいというか、麗しい美徳が互いに満ち溢れていたものだと思います。それが特別でもなんでもない、ごくごく普通の感覚でした。

それがいつ頃からだったかは判然としませんが、こういうやりとりはすっかり廃れて現在はほぼ絶滅に等しく、駐車場代を払わんがための攻防などまったくありません。それはもう、不気味なまでに静かでスムーズなものです。
今の人は、人の車に乗せてもらっても、遠回りして家まで送ってもらっても、あるいは迎えに来てもらってこちらの車で行動を共にしたとしても、その行為に対して言葉で「すみません」とか「おじゃまします」などの最小限の言葉が出るのがせいぜいで、実際の行動として駐車料金ぐらい出そうとする、あるいはせめてワリカンでという気持ちなど「微塵もない」ところはまったく驚くばかりです。

こちらが駐車場代の支払いをしていると、横でその作業が終わるのを静かに待っています。
こちらもちょっと送ってあげるからといって、それでいちいち駐車場代を払ってもらおうなどとケチなことを思っているわけではありません。ただ、普通の感性として、乗せてもらうからには、ささやかな駐車料金ぐらい出すのが普通で、これは専ら倫理やマナーの問題の筈ですが、そういったものが一切介在してこない乾き切った感覚が当然のように流れると、内心「…すごいな」と思ってしまうわけです。

こちらもむろん自分で出す気ではいるものの、せめて出そうとする態度ぐらい示したらどうかと思います。
電車やバスで帰ってもそれなりの料金はかかるわけで、これではまるまるタダ乗りということになるでしょう。もちろんタダ乗りで結構なんですが、そのどこかにお互い様の心の機微が機能しないことには、こちらの善意までちゃっかり利用されているみたいです。

はじめの頃は「なんという図々しさ!」「どういう感覚してるんだろう?」と呆れたりしたものですが、必ずしもそういう無作法をするような相手でもないし、それほど悪気ではないらしいこともしだいにわかってきました。しかし、わかってくるにつれ、さらに別の驚きが上塗りされるようでした。

要するにこう思っているんだろうと考えられます。
駐車料金(有料道路なども同様)などは車にかかるもの、よって、それらはすべて車の所有者が負担するのが当然で、乗せてもらう人間には一切かかわりのないこと。これらは車の持ち主の責任(あるいは負担)領域内で発生しているものであり、他人には無関係であるという、乗せてもらう側に都合のよい理屈だろうと考えられます。

同時に、その根底には、ここでちょっと知らん顔をしておけばそれで済むわけだし、わざわざ進み出て金を出すこともないという、あさましさがあることも透けて見える場合もあるのです。
実際には、ものすごくその人のイメージダウンになるわけですが、こちらもポーカーフェースを貫くわけですから、肝心のご当人には、そのイメージダウンがどれくらい深刻なのかはわからないままになるのでしょう。
たかだか数百円で、そんなに自分の値打ちを下げるなんて、そんな割に合わない事、マロニエ君なら嫌ですけれど。