音楽性とテクニック、いずれが大切か。
これはピアノ演奏上の価値基準に対する、永遠のテーマかもしれません。
コンクールの功罪や在り方も、煎じ詰めればこのテーマに抵触するとき、あれこれの論争が巻き起こるといっていいのかもしれません。
どんなに腕達者であっても、そこに一定の音楽性が伴わなくては聴くに値しないという基本は揺らぐものではないけれども、先日のロマノフスキーの演奏は、技巧と音楽性(広義では芸術性)の関係についてあらためて考えさせられる契機にはなりました。
よほどの悪趣味であるとか、体育会系腕自慢は論外としても、やはり水際立ったテクニックというものは正しく用いられている限りは、それ自体もストレートな魅力であることを認めないわけにはいきません。
ここでいうテクニックというのは、厳密には「メカニック」との区別を厳格にすべきかもしれませんが、そんな言葉の微妙なところはどうでもいいというか、要はその言葉の微妙な意味の違い以前の根本的な問題のような気がします。
技巧VS音楽性、いずれを大事と見るかは譲れぬ意見があるようで、それぞれ言い分はわかります。マロニエ君の結論としては、少なくともステージに立って演奏するようなピアニストであれば、この二つはどちらが欠けてもダメだということです。
技巧を第一に考える人は、ピアノといえばまずは指の技術ありきであって、曲をまともに弾くこともできずに音楽性云々と言うのは詭弁であり、キレイ事にすぎないということでしょう。
たしかに豊かな音楽性も、繊細な感性も、悲喜こもごもの心的描写も、それらはすべて鍛えられた技巧を通してはじめて表出させられ音楽にのせて具現化することの出来るもので、それなくしては表現もなにもはじまらないという主張で、その点はマロニエ君もまったく同感です。
ただ、現実には、技巧が表現のための手段として、いわば表現の裏方に徹しているかというと、そうは思えないところも多々あることが問題です。
ピアニストであれ素人であれ、長年にわたり技巧の習得に邁進してきた人の中には、音楽性云々は建前で、本心では技術がすべてに優先するという人が大勢いるのは事実でしょう。技術こそが優劣の絶対尺度で、それをまるで偏差値のように捉えてしまうやり方です。
音楽的趣味や感性の重要性にはほとんど目を向けようとせず、そちらがまったく育っていない人(というかむしろ抜け落ちている)というのは音楽の世界では最も恥ずべきことのはずですが、高い技術さえあればとりあえず威張っていられるのがこの世界の現実で、それだけテクニックを持っていることはエライことなんでしょう。
そういう人達に限って、ショパコンとかプロコとかベトソナなどと疑いもなく口にするようにも思われ、これらは直接の関連はないはずですが、やっぱり何かはっきり説明できないところで繋がっているような気がするのです。
ピアニストの演奏スタイルも時代とともに変遷があり、二三十年前まではあからさまな技巧派タイプがいたものですが、近年は一捻り二捻りされて、ぱっと見は非常に精度の高い知的な演奏が主流で、そこへ自分の演奏表現(のようなもの)を織り交ぜて個性とするスタイルが主流のようです。しかし、ときに不自然なほどの「間」を取ってみたり、変なアクセントをつけたり、意味のないような内声を際立たせたり、極端なpppとfffの対比でコントラストをつけたりと、必ずしも聴き心地の良い音楽とはなっていないものを見かけるのも事実。
それもよくよく聞いていると、結局は自分の技術的都合にそった解釈めかしたものであったり、評価のための演奏であったりと、その企みが透けて見えてしまうと、たんなる個人的な野心を見せられているようで気分はシラケてしまいます。
そんな中、技巧の優れることが音楽性に勝るとは思いませんが、現実的に抜きん出た技巧を持っている人のほうが、精神的にも余裕があり、情緒面も落ち着いているのか、音楽もどちらかというとストレートであるのはひとつの特徴だと思います。
結局のところ、技術や才能に足りないものがある人ほど、小細工を散りばめてあれこれを企んだり辻褄合わせをする必要があるようで、正攻法でいけば、自分の欠点が忽ちバレてしまうという恐れがあるんでしょうね。
そういう意味でも、やはり余裕ある技巧はどうしても必要になることは否めないように思います。
ただし、これはあくまでもプロの話であって、アマチュアの場合は断じて音楽性が優先だと思います。
アマチュアの場合、多くは技巧といってもたかが知れています。所詮は人よりちょっと難易度の高い曲を弾けますよといった程度で、どっちにしろピアニストに敵うはずもなく、他人にとってはほとんど意味のないことです。
聴かせてもらうなら、小さな一曲でもいいから、きれいに弾いてもらったほうがよほど気持ちがいいですね。