以前、アンドレア・パケッティの弾くゴルトベルク変奏曲のCDの感想から端を発して、ファツィオリのことにも触れたところでしたが、その後、BSクラシック俱楽部でボリス・ギルトブルグという若手ピアニストの来日公演の様子が放映され、会場であるトッパンホールのステージに置かれていたのはファツィオリのF278でした。
ついひと月ほど前に、CDから聴こえてくるファツィオリの音についてあれこれ書いたばかりなので、そこに綴ったものが時間をおき、音源を変えてみて正しかったかどうか、あるいは何かが修正されてくるか、その点を(自分なりに)検証する意味もあって、意識的にこのピアノの音に耳を傾けました。ピアノ、ピアニスト、会場、曲目、録音が異なれば、受ける印象にも多少の変化がある可能性は大きいのでは…というわけです。
曲目はグバイドゥリーナのシャコンヌ、ラフマニノフの楽興の時第1番と第3番、プロコフィエフのソナタ第2番。
グバイドゥリーナのシャコンヌはよく知らない曲だったため、主に作品自体を楽しんだものの、ラフマニノフ以降はピアノにも注意を向けてみました。
果たしてそれは、パケッティのゴルトベルクで聴こえたものと、つまらないぐらい同じ印象でした。
自分の書いた感想に対する検証という意味では少し安堵の気持ちも覚えはしましたが、やはりファツィオリほどの最高級にランクされるピアノですから、なにか印象が好転するような要因があればと期待していたのですが、とくにそれらしい要因は見当たりませんでした。
ラフマニノフの楽興の時第1番などはゆったりした曲調であるぶん、落ち着いて音を聴くことができるのですが、やはりその音には奥行きというか、濃淡や立体感みたいなものが感じられません。
緩徐部分でも響きが固く、表現が難しいところですが、曲線的な歌唱の要素がなく、むしろメカメカしい感じばかりが耳についてくるように感じました。
演奏という入力に対してのレスポンスはたしかによさそうで、低音などまるで筋肉が隆起するようです。この点で弾く人には刺激的なのかもしれませんが、楽器に人格のようなものを感じたり、そのピアノなりの声や響きの構成にわくわくさせられるようなものはやはり感じませんでした。
楽器の音には「抜ける」という要素があるのかどうか専門的なことはしりませんが、神経に何かが溜まっていくのか、しだいに息苦しい感じのするところが気にかかります。もしかすると無機質でデジタルな時代感覚に合わせ、意図的に味わい深さやリリカルな要素を排した性格が与えられているのかもしれません。
ピアノの音に馥郁としたものや交響的なものを求めるとしたら、そういう性質のピアノではないのでしょう。それはこの日弾かれたロシア音楽、わけても遙かなる大地と哀愁の漂うラフマニノフにはまったく不向きという印象で、大きなロシア人が異国でアルファロメオにでも乗せられているようでした。
ファツィオリはスカルラッティのような鮮烈な花束みたいな作品には最良の面を発揮するのかもしれませんが、壮大さや憂いを内包する重厚な音楽には向いていないのかもしれません。
ピアニストのボリス・ギルトブルグは、初めて聞く人でしたが、ピアノを演奏するという行為をとても真摯に受け止めて、終始良心的な演奏に徹するタイプのようでした。
小柄な人でしたが、テクニックも見事で、プログラムに対する準備も怠りなく、まさに誠実な演奏家という印象を抱かせるに十分です。とくにその表現は繊細かつ大胆で、ロシア人ピアニストも時代のせいか、このようなデリケートな配慮の行き届いた表現ができるようになったということを痛感させられました。
リヒテルだギレリスだといっていた頃の、分厚くこってりした、力でねじ伏せるような演奏がロシアピアニズムだった時代を思い起こせば、この点でもずいぶんと近代化が進んでいることを思い知らされます。