コンサートが苦痛に

音楽好きを自認する人間がこれを言っちゃおしまいかもしれませんが、(特別な場合を除いて)生のコンサートというのが基本的にイヤになっている自分に気がつきました。

むろん生のコンサートの良さや醍醐味はよくわかっているつもりですが、それを押し返すほどのマイナス要因を感じてしまうこのごろなのです。
まず言えることは、昔のようにわくわくするようなコンサート自体がなくなったということが第一にあります。演奏家の技量は一様に向上して大変なものがあるのはわかりますが、大半は無機質の、能力自慢的な演奏でしかなく、演奏を通じて音楽に感銘を受けたり心が揺さぶられるということも激減しています。

その点に関しては、こちらの耳も演奏を善意に受け止めるような素直さを失っているのかもしれません。そうだとしても、とにかくコンサートに行っても結果的に楽しくないというのがこのところの結論です。

そもそもコンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要するということは否定しようがありません。これこれしかじかのコンサートに行くということは、事前の情報のキャッチから始まり、行くという決断、チケットの購入、予定の調整など、事前の準備もわずらわしいものです。

当日は当日で、コンサートに行くことを前提とした動きになり、何をおいても一定の時間内にその準備をし、開演時間に間に合うように出発し、マロニエ君の場合は必ず車なので、駐車場に車を置いて、てくてく歩いて会場入りします。
さらに最近きわだって苦痛になってきたのは、決して座り心地の良くない会場のイスには、開演前から含めると、都合2時間以上もまんじりともせず座り続けなくてはならないことです。しかも演奏中は暗い客席から眩しいステージを見つめるということが、目や脳神経にもストレスで、しかも耳は演奏に集中しますから、心身の疲労がたまりにたまります。

これは、いかに好きな音楽とはいえ、心身へかなりの苦行になり、それが深い疲労に追い込まれるようになりました。

会場も大抵音響は酷く、たしかにステージ上では有名演奏家が演奏していますが、実際に耳に届く音や響きは甚だ遠く不鮮明で、茫洋とした残響ばかりを聞かされているのに、価値ある演奏を聴いた気になろうと意識が無理をすることも事実でしょう。ほんらい期待している演奏の妙技や心を打つ音楽体験などは、はっきりいって大半が伝わらずじまいです。

それでも今目の前であの人が演奏しているというだけでありがたいような存在なら、その空間と時間を過ごすだけでも意味があり、満足かもしれませんが、そんな(たとえばホロヴィッツのような)人はもういません。
また、東京あたりでのテレビカメラの入るような演奏会は別として、大抵の名だたる演奏家はツアーを組んでいて、その訪問先のひとつに過ぎない地方都市では、あきらかに手を抜いた気の入らない演奏をしていることが少なくなく、そんなものを聴くために高いチケットを買って、せっせとホールへ馳せ参じる欺瞞にも、もう好い加減いやになってきたのです。

素晴らしい芸術家の演奏を聴くといういうより、ほとんど商業主義の出稼ぎツアーにお金と時間を使って協力している1人に自分がなっているような気になることが多すぎるのです。マロニエ君にとってコンサートに行くということは、聴いている瞬間はもちろん、後々の記憶にも残るような喜びと感銘を得るためにホールへ足を運ぶことだと思うのです。

また、会場では必ずと言っていいほど、周囲にはカサカサ音をたて続ける人、異様に座高の高くて完全に視界を遮る人、演奏中も椅子をバタバタ振動させる子供、小さな声でしゃべっている人、チャラチャラと音をさせてあめ玉などを取り出す人、変な香水などの匂いを撒き散らす人、なぜか演奏中に身を屈めて出ていく人など、不快要因が散在していて、これらも嫌になってしまうのです。

それもなにも、演奏で満腹できればチャラにできるでしょうが、こちらもさっぱりという場合が少なくないし、そんな現実を思い浮かべると、もはや少々のことでは「家にいたほうが快適」になってしまいます。
チケット代にしても、ちょっと名の知れた海外オーケストラなどになると、もはや行く気も失せるような料金で、それで何枚CDが買えるかと思うと、マロニエ君にとっては価値を感じるほうに使いたくなってしまいます。

まあ、これじゃいけないんでしょうけれど、いやなことはしたくないのです。