シャマユとバラーティ

N響定期公演の録画から、ベルトラン・シャマユのピアノでシューマンのピアノ協奏曲を聴きました。

シャマユは近年注目されるフランスの若手で、マロニエ君もすでにシューベルトのさすらい人や、リストの巡礼の年全曲などをずいぶん聴いており、それなりに親しんだ感のあるピアニスト。
ただし、演奏の様子は見たことはなく、この時がはじめてでした。
CDの印象では、趣味の良い演奏に終始して、必要以上に語りすぎたり主張が強いといったことなく、こまやかな感性がバランスよく行き届いた演奏で、耳に心地よいピアニストという印象でした。

節度をもってサラッと行くところがフランス人らしいといえばらしいけれども、シューベルトなどではもうひとつ滋味につながらなかったり、作品の内奥を覗き見るような精神性を求め得る人ではないようですが、繊細で気の利いた演奏をする人というのは確かなようです。
それが最もいいほうに出ていたのが巡礼の年(全曲)で、ペトラルカのソネットのような芸術性の高い作品が含まれるいっぽうで、全体的にはなんだかやけに大仰でワーグナーのようなこの作品にあまり共感を得られないマロニエ君としては、シャマユの演奏はリストの作品に潜む、なんだか誇張的で混沌とした部分がすっきりと整頓され、見通しの良い景色になってくるような心地よさがありました。

そんなシャマユでしたから、シューマンの協奏曲ではリパッティのようなといえば言い過ぎかもしれませんが、均整と節度がおりなす美演のようなものをイメージしていたところ、残念ながらそうではなく、あきらかにピアノが負けて埋没してしまっており予期したような感銘には繋がりませんました。
ところどころに彼らしい語りの美しさも垣間見えはしたものの、全体的には骨格の弱い、いささか心もとないピアニストという印象に終わったのは非常に残念でした。

趣味が良いとか、繊細な表現とか、さまざまな個性があることとは別に、人には生まれ持った器というものがあるようで、その点でシャマユはあくまでもコンパクトに聴かせるサロン系のピアニストであって、腕力も問われる大舞台には向かないようだと思いました。


別の週にはクリストフ・バラーティをソリストに迎えての、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番で、こちらは呆れるばかりにうまい人でした。
とりわけその自在なボウイングには唖然!

正直にいうと、マロニエ君はいくら聴いてももうひとつバルトークというのが自分には馴染みません。
人に言わせると、これ以上ないというほど素晴らしいのだそうですが、なんだか理屈先行の作曲家という頭でっかちな感じも否めませんし、その傑出した作曲技法も、聴く者の五感に直訴してくるものが後回しになっているようで、専門家だけが唸るなにかの設計図のような気がします。
さらには、バルトークがこだわった民謡というのがそもそもマロニエ君好みではなく、どうも相性がよくないというか、客観的には理解できないと見るべきなのかもしれません。

どんな名人の手にかかっても、バルトークが鳴り出すと「早く終わって欲しい」と思ってしまう自分が情けなくもありますが、唯一の救いは、かのグレン・グールドが「20世紀の最も過大評価された作曲家」としてバルトークの名を挙げている点です。

マロニエ君にとってはそんなバルトークですが、バラーティのヴァイオリンにかかっては、なんとかこの「好みではない大曲」を最後までそこそこ楽しむことができたのは、自分でもちょっと意外でした。

なにより腰の座った技巧と、奇をてらわない表現は、この複雑怪奇?な難曲を、ぶれることなしに終始一貫した調子でものの見事に弾いてのけたという点で感銘を受けました。
その音色は常に適確で冴え冴えとしており、NHKホールのような大会場でも、ものともせずに響きわたっていたようです。

アンコールはイザイのヴァイオリン・ソナタ。
この人のイザイはCDでも持っていますが、CDよりずっと落ち着きがあって好ましい印象でした。

調べたところ使用されるヴァイオリンは、1703年のストラディヴァリウス「レディ・ハームズワース」だそうで、それじたいが超一級の楽器のようですが、だとしても小さなヴァイオリンひとつがあれだけ大会場でも朗々と鳴り響くのに、最近の新しいピアノときたら、それこそ泣きたくなるほどふがいない音ばかり聴かせられている現状には、あらためてピアノという楽器の危機を感じずにはいられませんでした。

シャマユの演奏も、ピアノがひと時代前のものであったらずいぶん違っていただろうと思います。