最善をつくすか

BSプレミアムシアターで佐渡裕の振ったコンサートが二本、続けて放映されました。
ひとつ目は先般書いたトーンキュンストラー管弦楽団への音楽監督就任を記念した野外コンサート、もう一つがパリのサル・プレイエルで行われたパリ管の演奏会でした。

こちらでは、ベレゾフスキーをソリストとしたラフマニノフのパガニーニ狂詩曲が演奏されました。
ベレゾフスキーは見るからにロシア男といった感じの大柄なピアニストで、それにふさわしい余裕あるスタミナとテクニックをもっているようですが、彼のピアノは粗さも目立ち、演奏家として作品の隅々まで熟考を重ね、細心の注意を張り巡らすといったことが苦手なのだろうと見るたびに思います。

彼が「オレは弾きたいように弾くだけ、それ以上のことはしたくない」と思っているのかどうかわからないし、実際の彼の心中がどのようなものであるのかは知るよしもないけれど、すくなくとも彼のピアノを聴くたびにそういったメッセージを送りつけられているような気がしてしまうことは毎度のことです。

まず、いつもながらの早すぎるスピード。ネット動画で見るロシア人の荒っぽい運転さながら、テンポをきちんと守ることさえ面倒くさそうで、作品に込められた作曲者のあれこれの工夫や聴かせどころなど、オレの知ったことか!とばかりにガーッとアクセル踏んでぶっ飛ばしていくようで、だからこの人のピアノで作品の内奥を覗き見るような経験はまったく望めません。

不思議なのは、ベレゾフスキーというピアニストには、あれだけの技術と体格があるのに、音はいつも平坦で薄く、楽器を鳴らしきることができないのはどうしてなんだろうかと思います。
かつてのロシアピアニズムのような、重量の伴った「こってりした豪快」ではないし、出てくる音にも不思議なほど「音圧」がないのがこの人の特徴のように思います。

意外なのは、全体のマッチョなイメージとは裏腹に、服の袖口からでたその手は、どっちらかというと女性的なぷわんとしたもので、台所用のゴム手袋に水を入れたみたいで、これが彼の出す音色に関係しているのだろうかとも思いますが、よくわかりません。

それでも、このときはパリのサル・プレイエルであるし、収録のカメラも入ったコンサートということで気が締まったのか、これまで見た中では明らかにキチンとしたものだったように見受けられました。つまりベレゾフスキーなりに襟を正し最善をつくした演奏だったようには感じられました。いちおう。
むろん、ピアニストとて生身の人間ですから出来不出来もあれば、ノリの良さ、気合の入れ方にも差があるのはわかりますが、どうも日本での演奏は、おおむね緊張感を欠いたものが多すぎるように思います。


ここから先はあくまで一般論ですが、ラ・フォル・ジュルネのようなコンサートの大量販売会とでもいうべき環境下で、次から次へとポンポン弾かなくてはならない場合は知らないけれども、平生からステージに立つ機会が多い人の中には、通常のコンサートでもしだいに慢心するのか、本気の演奏をなかなかしなくなり、あきらかに手抜き演奏でお茶を濁していることが少なくありません。
もちろん「一部の人」という限定はしておくべきですが。

マロニエ君がいやなのは、品位のないレベルの低い演奏はもちろんですが、出来る人が、あきらかに最善を尽くしているとは思えないような演奏に接するときです。
そんなとき、ただもう無性に不愉快で、馬鹿にされたようでもあるし、人間のいやなところを見せられてしまったようで、実際の演奏会はもちろん、テレビでみる演奏でもその不快感は拭い去れません。

日本人ピアニストの中にも、ちょっと有名になると売れっ子気分になるのか、ほとんど練習らしい練習もしないですむようなポピュラーな名曲ばかり携えて、あちこち飛び回っているような人もあるようで、こういう人の演奏スタンスは聴くに値しないばかりか、本当に実力あるピアニストのステージチャンスすら間接的に奪っていると思います。

演奏というのは表現行為であり、そこには怖いくらい本人の人柄や気構え、折々の心理やテンションが浮き出るもの。生まれて初めてピアノのコンサートに来たという人ならともかく、そこそこの数を聴いていれば一目瞭然です。

いわゆるミスタッチは少くても、聴衆を甘く見たような演奏をすることは、演技的な表情をうかべてキレイ事を言うのと同じことで、表立ってクレームが付けられないぶん、その罪は深いと思います。
こういうことの膨大なる集積も、コンサート離れの一因だとマロニエ君は思うのです。